2007年04月06日

すたんーずほてほて その13。

とりあえず、今回で終わり、です。思い出したらなんか書くかもですが。


〜シャフリサブス・ペンジケントのおまけ篇〜




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ティムールはでっかい像でした。
戦傷の為右足を引きずっていたそうですが、晩年に至っても征服欲が衰えることが無く、中国(当時の明王朝)への遠征途上で亡くなります。
鄭和の遠征って建文帝存命説も有るけど、この遠征も若干影響したんですよね…??


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アク・サライ、門の片割れです。上が展望台になっているらしい。

どんだけでかい宮殿を作るつもりだったんだ。


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ペンジケント遺跡。

丸一日だって居たかったです、体調さえよければ……血涙。
posted by みなと at 16:40| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年04月05日

すたんーずほてほて その12。

えらい長くなりましたが、明日で終わる予定です、はい。(誰も読んでないと思うよ。)


〜ペンジケント篇〜




風邪でぶっ倒れましたが、ここだけは…とドーピングして、タジキスタンへの国境越えは決行しました。(周りが迷惑だろう。)



ウズベキスタンに比べると何となく閑散としています。車も少ない……。

何というか風景がウズベキスタンと随分違います。地続きの隣国同士のはずなんですが。



道の両側に田んぼや畑がずーっと拡がっているのは同じなのですが、タジキスタンはその先に4000mクラスの山脈が控えている所為でしょうね。ザラフシャン山脈とトゥルケスタン山脈です。

これらの山脈の雪解け水によって、タジキスタンは比較的水に恵まれているとか。

あの山脈の向こうがアフガニスタンになるんですかねえ…。複雑。芥子の持ち出しにあの山を越えるのかあ。



まず向かったのは、ルダーキ記念博物館です。ペンジケントから発掘されたものを中心に展示されています。

一番最初の部屋は、タジキスタンに棲息している動物の標本の山でかなりびびりましたが。だって天井まで届かんばかりに展示されてる猛獣類の標本ですよ。

なんだか小学校の展示室を思い出させる部屋の暗さも相俟って、怖…。



で、その次からは展示品とか、ソグド人の服飾図とか。

発掘の指揮をしたのが当時のソ連だったせいですかね、一番いい状態の壁画はエルミタージュ美術館に持っていかれたそうです。ここでは写真だけ。返せ。(と言っていたらキリがないんですよね、発掘品の所有権問題。)



それでも、ゾロアスター教のアフラ・マズダ(正義)とアーリマン(悪)の戦いの場面を描いた壁画は凄かったです。

なんか、世界史で言葉上では習っていても、そういった闘争を絵として表現しているものが残っていたなんて知らなかったので、感動してしまいました。横にものすごく長い壁画で保存状態も悪くない気がします、色が綺麗。



装身具なんかも凄いなあとショーケースに張り付いていたら、きました、写真とってくださいな。

えーと、構いませんが、貴女はここの職員さんでわ…お仕事いいのかなあと思いつつ、ぱちっと一枚。デジカメなのですぐに見てもらえるのは助かります。



そして本日のメイン、交易民族ソグド人の街、ペンジケント遺跡へ。



最高でした…来て良かった…!!

あ、えーと、人によっては何にもないやん、と失望すること請け合いな場所です。ほんとに何も無いです。



一見、芝生の生い茂る下に黄土色の土が剥き出しになっているだけなのですが、この土の部分、よく見ると日干し煉瓦が積み重ねられたものだと判ります。そういう視点で追っていくと、隆起している部分が家屋で、間に道があってと、街の基礎部分が見えてきますね。

なんか、悠久の時の流れに埋没していく都市を眺めているって気分になります。

シルクロード系の史跡って大概はこんなんだもん。保存の是非を問えるほど、みなとは歴史の持つ問題に密着してはいませんが、大抵はこうやって埋もれていくんだなあと。史跡で鬼ごっこをしている地元の子供を見て思いました。



またロケーションもいいんですよ。

トゥルケスタン山脈側(だと思う。)には赤色と緑がかった茶色が層を成した山があって、その前を大河が流れ、現在のペンジケントの街が広がっているんですよ。それらがペンジケント遺跡の背景に広がっているわけで。

すかーんと晴れ渡った空にほんとよく映えます。

反対側に眼をやれば、ザラフシャン山脈の最高峰が見えます。こちらの山嶺は雪をかぶって(万年雪ですかね。)岩肌が碧くて…。



みなとは大満足でした。ほんと来て良かったー。

帰りは途中でヤク切れ起こして再び発熱して皆様にご迷惑かけまくりでしたが。(ほんとにツアーでご一緒した方々、添乗員さんにガイドさん、すみません…。)
posted by みなと at 15:50| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年04月04日

すたんーずほてほて その11。

4月に寒の戻りですか……。


〜シャフリサブス篇〜




シャフリサブスはアミール・ティムールの生誕地です。

どーんとティムールの像がそびえておりました。近付いて写真撮りたかったけど、像の足許では結婚式の真っ最中でした。


それにしてもブハラあたりから子供の物売りが増えたなあ。あと、ペンや飴を欲しがる子とか。


まずはティムール像の背後にあるアク・サライに。ティムールの死後も工事が続けられ完成した巨大なアーチ…………の残骸。(本来は宮殿。)現在はアーチを支える2本の柱しか残っていませんが、とにかくでかい。もとはどのくらいあったんだというくらいです。

ブハラのアブドゥル・ハンの嫉妬により破壊されたと言います。ティムール帝国滅亡後に興ったブハラ・ハン国の君主たちはティムール一族を全力で否定している感じですねー。


そういえば、写真を撮ってくれ、と言われることは良くあるのですが、一緒に写って、というのは初めてでした。ツアーのヒトタチと3人くらい巻き込まれて、ウズベクの人が10人くらいの集合写真。びっくりしたー。

あと、随分おめかししている子供が多いなと思ったら、ウズベキスタンでは3月21日が春の始まり=新年のお祝いなのだそうです。へー1年の始まりの日も国それぞれだなあ。


それからドルティロヴット建築群とドルッサオダット建築群へ。

後者はティムールが早世した長男のために立てたものだとか。傍らのモスクは現在も100名くらいが日々の礼拝時に訪れるそうです。ガイドさんが「思ったより多かったです。」とコメント。←イスラム教徒

ドルティロヴット建築群のコク・グンバス・モスクは中に入れましたが修復中でした。


そうして、やっと一番楽しみにしていたサマルカンドへ向かったんですよ。ええ。



〜サマルカンド篇〜




みなとがウズベキスタンへ何で来たかって、青の都サマルカンドを見たかったからですよ。

なんにこのバカは、シャフリサブスからサマルカンドへ向かう途中に発病しました。(…。)


最初に向かったのは、グル・エミル廟。ティムールの眠る場所なわけですが、その時にはすでにかえる袋持ってたものですから、まともに立ってられない状態でした。

外観だけ堪能して、廟内にあるベンチでひっくりかえっておりました。あんたここまで何しに来てん。


ツアーの中に元看護士のおばさまがいて、脈診てもらったら「あなた、39度は軽く超えているわよ、熱。40度あるかもしれない。」熱感はないけど確かにふらふらです。現にホテルに入った途端、マジで大変でしたよ…震えと悪寒が止まんなくって毛布ぐるぐる巻きにしてました。

添乗員さんたちが差し入れてくださる水が命綱でしたね。で、リンゴとナンでなんとかエネルギー源補給。それでもウズベキスタン伝統スイーツがでると聞いて「持ってきてください!」はないだろうよ。大人しく寝ろ。


もう一人、現役看護師さんがいて、抗生物質をいただいたときはほんまに助かりました。あれなかったら日本までの体力は残ってませんでしたよ。


と、いうことでメインディッシュ・サマルカンドは一つも味わえませんでした。


くくくぅ……、体調管理って重要ですね。いつかリベンジ……!(こりろよ。)
posted by みなと at 12:48| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年04月03日

すたんーずほてほて その10。

写真です。こう、巧く撮る方法ってないものですかねえ。


〜ブハラ篇 おまけ〜




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『死の塔』からみたカリヤン・モスクとアルク城。下は見ない見ない。



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イスマイル・サマーニー廟。のアップ。積み木細工のようでした。



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ナディール・ディヴァン・ベキのメドレセ。正面上部の絵。素敵なセンスですよねえ。こういう絵大好きです。
posted by みなと at 12:43| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年04月02日

すたんーずほてほて その9。

今日実家にサマルカンドから送ったハガキが届きました。

そういえば中国・黄龍から送ったハガキ(昨年10月)がまだ届いてないよ…。


〜ブハラ篇 その3〜




カリヤン・ミナレット一帯はブハラでも旧市街に位置しており、この周辺にはこれでもかと遺跡たくさんあります。

で、次。




タキ(もしくはトキ)、と呼ばれるドーム型の市場をいくつか。交通の要衝である交差点に作られることが多かったそうです。現在もお土産屋さんが入っています。

コウノトリの形をした曲がったはさみ(飾り切り用)とか、コーヒーでかいた細密画とか、なかなか面白いものが売っていました。

当時は「両替屋」「宝石屋」「帽子屋」と売るものによってタキが異なったようです。


ウルグベク・メドレセは、使用されている文様もこれまでのものとは異なり目を引きますが、入口の碑文に特徴があります。


「知識への切望はそれぞれのイスラム教徒の男女の義務である」


女性にも学問の門戸を開いた画期的な碑文です。

ウルグベクはアミール・ティムールの孫に当る人物ですが、天文など科学的なことに強い関心を示した君主だったそうです。ですが、ティムール帝国の混乱を収められず、長男に殺害されるという末路を辿ります。この事件においては宗教指導者がウルグベクの進歩的な考え方を嫌ったという一面があるのではという推測もあるとかなんとか。興味深いなあ。


道を挟んだ真向かいにアブドゥルアジズ・ハン・メドレセがあります。規模においてウルグベク・メドレセを大きく上回ったそうですが、残念ながら修復中だったので、どのくらいすごいか分からなかったです。ごめんねアブドゥルさん。(略すな。)


次はマコギ・アッタリ・モスク。これも砂に埋もれていたのを掘り出して発見されたそうです。一体このあたりはどれだけ砂が積もっていたんだろ。

彩色はほとんど剥げ落ちているのですが、それはもう細かい装飾が掘り込まれています。

そしてその文様の中に8の真ん中に横一本の線が入ったような文様が刻まれているのですが、これはゾロアスター教で無限を表しているそうです。つまり、後の時代にはイスラムモスクとして使用されているが、元来はゾロアスター教の寺院ではなかったかと推測されているとか。

そういえば、8って横に倒すと∞(無限大)になりますからねえ。ゾロアスター教が起源なんだ?

一神教であるはずのキリスト教やイスラム教に「悪魔」の概念が入っているのはゾロアスター教の二元論が影響を与えているっていうしなー。すごいな拝火教。

話がずれましたが、現在このモスクは絨毯博物館になっています。中は微妙に薄暗いけど…。


リャビ・ハウズは人工池で、その周囲を取り囲むようにナディール・ディヴァン・ベキのハナカとメドレセがあります。

あとは地元の人たちの憩いの喫茶どころ。お茶飲みながら(お酒かもしれません。)楽器弾きながら歌っているおじさんたちとか。ほのぼの。


ハナカはスーフィー派の神殿で、メドレセはイスラム教の神学校です。もともと、メドレセはキャラバン・サライ(隊商宿)として建設されたのですが、スーフィー派長老の忠告でメドレセに変更になったとか。(このあたりの経緯がいまいちよく分からない…。)

メドレセの入口正面の絵がなかなか面白いです。人面の太陽が真ん中にあって、左右に不死鳥が飛んでいるという……よく熱狂的なイスラム教徒に破壊されなかったなあ。タブー犯しまくりでないの。


メドレセの前にはナスレッディン・ホジャの像があります。ロバに乗って粗末な服を着て、靴が脱げかかっていました。(なぜ…。)

とんち話など数多く伝わっているそうですが、民衆が彼の人徳を慕うあまりいいことがあれば全部彼のおかげだ、ということになってしまい、真贋の程はわからないそうですが。……あー諸葛さまがっていうノリですね。苦笑。


はい、これでやっとブハラ終了です。長いわ!
posted by みなと at 14:58| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月31日

すたんーずほてほて その8。

やたらと長くなるなあ。要点まとめるのへたなんですよ…。(ひらきなおるな。)


〜ブハラ篇 その2〜




続きます。



アルク城の道路向こうにボロ・ハウズ・モスクがあります。

柱の上部にはアイヴァンという飾りが付いていて、モスク内もなかなか豪華です。昔はハーン専用のモスクだったとか。

現在も礼拝に来る人がいるそうです。そのために、礼拝の時間を知る為、それぞれの時刻を示した5個の時計がかかっています。


中に入って、礼拝のやり方を教えてもらって、そのかっこで写真を撮るあたり完全におのぼりさんです。

モスクでも、お気持ちをお願いします、な箱が置いてあります。みなとは賽銭箱感覚で、10スムコインを鍵管理のおじいさんに見せると

首振って溜息吐かれてしまいました……。相場は幾らなんだ。


それから、旧約聖書の預言者ヨブが水を湧かせたというチャシュマ・アイユーブを見て、イスマイル・サマニー廟へ。


このサマニー廟は、中央アジアでも最古の日干し煉瓦建築だそうです。外も中も全部日干し煉瓦です。煉瓦の角度や向きを変えることによ

ってアラベスク文様を作り出しているのですよ、すごすぎる。単色なのに色彩豊かに見えてしまいます。

さて、ユーラシア大陸をモンゴルが席巻した時、ブハラやサマルカンドといった都市はほぼ破壊されているのですが、この廟が残されたの

は、他でもなく、砂に埋没してしまっていたからだそうです。発掘・再発見は20世紀に入ってからだそうです。

この廟は願い事を唱えながら三周を回ると願いが叶うといいます。ツアーの一人のおばさまが遠大な野望を願って走っておられました。




「120歳まで生きて、世界一周するのー!!」


きっとできると思いますよ!みなともあれくらいの気概が欲しいです。


この後は、近くのバザールへ。

すいません、真っ先に人波に流されて迷子になりました……。だって売られていた布がすっごく綺麗で綺麗でいいなあーって見てたらはぐ

れたんだよ…。(何歳児だ。)


「みなと様ー、みなと様ー!」と添乗員さんが呼んでいる声が聞こえて「はあーい!!」と大声上げてばたばた人波掻き分けていたら、通

りすがる現地の人が皆、指差して教えてくれました。なんて親切なんだ……!

はい、無事合流できました。


でもほんまバザールって面白いです。服作ったりハンドメイド好きな人なんて天国じゃないでしょうか。こちらのウイグル民族の子供の服

は裾にレースを入れたりするせいか、レース類もふんだんにあります。

食料品も色々です。干した果実類やソーセージやお惣菜などなど。昼近くにはスープもあった。だけど山のようなお惣菜が青のポリバケ

に入っているのを見たときはほんとどうリアクションをすればよいのかと。売り物?売ってるんだよね?みたいな。

みなとは気に入った布を二種類買ったのですが、どちらのお店も裁断する時かたっぽをみなとが持って、こちらに向かってハサミをじょき

じょきと。で、布はたたんではいどーぞ。袋とかないです。必ず持参しましょう地球に優しく。


お次はカリヤン・ミナレットとモスク、そして向かい合うように立つのがミル・アラブ・メドレセです。


ええと、まずメドレセの方から。こちらは現在も神学校として使われているため、中に入ることはできません。

こんなところで勉強できるなんていいなあ。

青(エメラルドグリーンに近い。)のドームが二つあります。そして建造物には青を基調とした文様がたっぷりと。


カリヤン・モスクは中に入れます。ここはほんとすごいです。真っ白な敷石が敷き詰められた広い中庭。奥にはぽつんと王のための礼拝所

が設えられています。それだけ。

余計なものが一切ないんですよ。王の礼拝所の手前に樹が一本だけ。ここを一万人の信者が埋め尽くして神に祈るとしたらさぞかし壮観だ

と思います。

この中庭から外を見ると見えるのはミナレットと青のドームだけというのも素敵です。あとは空だけ。これが宗教的な空間というものかと

思いました。


カリヤン・ミナレットは高さ45.6mで、別名『死の塔』。

なんとなく想像つくかもですが、処刑台としても使用されていた霊的な指導者の権威の象徴です。罪人を袋に入れて塔の上から突き落とす

、という処刑方法が行なわれたとか。

……登りましたよ、ええ。

なんというか、窓が少ないから階段真っ暗なんですよ。登りはいいですが下りはマジで怖かった。段差が見えないんですもん。太もも攣

るくらい緊張したって!
あれは筋肉痛じゃないんだ!

眺めは最高でしたよ。ブハラが一望に見渡せます。ほんと地平まで見える勢いです。真下は絶対に見ませんでしたけどね。高い所は

好きですが、高所恐怖症ですよ。下見たらぐらぐらするに決まっています。怖い。

ミナレットに登って初めて気がついたのですが、モスクの屋根って平らじゃなくてでこぼこなんですよ。コーランを読む聖職者の声をモス

ク中に響かせる為の工夫だそうです。反響させるんだー。


ブハラ、まだ続きます…。
posted by みなと at 18:51| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月30日

すたんーずほてほて その7。

やっと写真の整理に手をつけました。何を撮ったのかわからないもの多数。どうしよう。


〜ブハラ篇 その1〜




始めに行ったのは、シトライ・モーヒ・ホサ。最後のアミールであり、ロシア陸軍中将でもあったアリムハンの宮殿です。


内装はロシアの影響を随所に見て取れます。時代的には第一次世界大戦前夜くらいでしょうか。

意匠にも変化があり、草花文様も花瓶に活けられたものが出てきています。展示品も、中国や日本との交易を示すように壺や大皿などの陶磁器が並んでいました。

輸出品だからか、それが当時のスタンダートだったのか判りませんが、日本の壺はものごっつ凝っています。こんなの国内で見たことないよ?


宮殿の裏手にはプールがありまして、伝説ではそこでハレムの女性たちが泳いでいて、そばにあるテラスからアミールがリンゴを投げて当った女性が今夜のお相手とかいう………西晋の武帝とよう似てます。

つか、テラス自体結構な高さなので、あそこから投げられたリンゴに当ったら痣では済まん気がします。


ここではなんと孔雀が何匹も飼われていて放し飼いになっていました。いえ、柵はあるんですがその下をくぐって何匹も脱走しています。いいのか。

オスとメスの数を数えているとどーもここもオスのハレムっぽいです。そのくせ、オスが一匹鳴きながら羽根を広げたりしてるのにどのメスも見向きもしないのはちょっと涙が。頑張れよ。

人を見るとオスはずだだっと逃げるのですが、メスはカメラ構えていたら首を傾げながら寄ってきたのにはびっくりしました。え、なんで?オスが逃げたのは土産屋のおばさまの話で判った気がしました。あの立派な羽根抜いて売ってるんだもん。気の毒だ…。




次は(というか次の日。)まずアルク城へ。

現存する城の基本的な外観は18世紀に形作られていますが、その起源となると2000年以上前とも言われているそうです。


正門から入りますが、本来は王専用の道であり乗馬したままだったとか。その左右に牢獄が…って、え?牢獄の間を王様は馬に乗って入城するんですか?…いまひとつその感覚がわからん…。


城内はみなと的には迷路でした。ツアーから外れたら間違いなく出れなくなるわー。城壁の上に出られるので見晴らしは良かったです。


モスクの内部は、コーランの博物館になっています。あの装飾的な文字を書くための筆なども展示されています。

そして、世界で最も古いとされるコーランの写本3部のうち1部がここに保管されているとか。なので、この本の解読ができれば原初により近いコーランの姿を知ることができるのですが、昔のアラビア文字は現代のように「・」がついてないそうなのですね。

ええっとみなともよく知らないのですが、この「・」が文字の上についているか下についているか全くついていないかだけで、A、O、Rくらいの差が出るらしいですね。だから解読が難しいのだそうです。

コーランも元来は口伝だったそうなので、当時は文書化されただけでも事件だったのだろうなあ。


モスクから出て横に回ってみると、アラビア文字が彫り込まれた角柱がごろごろ。なんだろなーとさわっていてガイドさんに聞いてみると、

「ああ、あれは墓石ですよー。いっぱい発掘されているんで。」

先に言ってくれ、そして止めてくれ!


そして謁見の間。入ってすぐに何故か一枚の壁が。

それを避けて、玉座まではだいたい30mくら…い??

実はこの壁、ここまでは謁見者が王に背を向けてはいけないよ、という標だったそうです。ここまで頭下げて後ろ歩きか!みなとならどっかでこけるな、そしてそのまま刑場送りやな!(笑えませんから。)


そして博物館へ。もとは王の居室だったのかな、たしか。

衣装やスザニといわれる織物、アミールの写真やいろいろあって面白かったですが、ガイドさんが話してくれた伝説の方が更に。

アレクサンダーの侵攻に対抗した女性の伝説だそうですが、最初にその侵攻軍に対し息子が兵を率い勝利して凱旋の途中で戦利品の葡萄酒を飲みました。当時はブハラにおいて「お酒」というものがなかったため、息子達は不覚にも初めて飲んだ葡萄酒に泥酔し、そこに急襲をかけられ全滅してしまいます。怒り狂った母は、部族の兵を率いて復讐戦に乗り出します。そして敵の首を取るたびに、血をたっぷりと入れた袋にその首を入れ、「血が好きならば好きなだけ飲ませてやろう。」と言ったとか。


怖…。息子を持つ母親を怒らせてはいけません。


というか。

この女性の名前が思い出せない!結構有名らしいのですがー。なんでメモっとかないんだみなと。息子の方の名もちゃんと伝わっているんですけど、どっちも忘れちゃった…もったいないよう。


…しかしこの旅行記、いつまで続ける気なんでしょうね。(人事のように…。)
posted by みなと at 18:32| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月29日

すたんーずほてほて その6。

PCデータのバックアップ用に外付けハードディスクを買うべきか、DVD−RWで済ませるべきか考え中です。うーんうーん。


〜キジルクム篇〜




ヒヴァからブハラまでバスで行くわけですが、その距離約470Km。長いなあ……。



アムダリア川(ダリアは川の意味だった気がします。アム川川。変なの。)を渡って、キジルクム砂漠を横断するわけですが、このアムダ

リア川に架かっている橋が、一種の軍事施設らしくてですね、撮影禁止

えー、残念とか言いつつ渡り終わってからさかさかスケッチブックに記憶を頼りに描いていました。当てにならない記憶力ですがね…。



見た感じ、軍事施設っぽい物ってなかったのですが、橋が架かっている場所そのものを明確にさせないための措置でしょうか。



この橋ですが、幅が狭いんですよ。だいたいバス一台分くらい。つまり、行き違いができないので、対向車は向こう岸で待つしかないんで

すよね。

それより、もっとびっくりしたのはその同じ橋に線路が走っていること。今バスが走っているこの狭いところを電車も走るらしいで

すよ。無茶な!
ガイドさんが「今日は電車が走ってなくて良かったですね。30分は待ちますからね。」とおっしゃってました




このアムダリア川は年々干上がっており、それがウズベキスタンの砂漠化の一因だとか。当然、アムダリア川の水が注ぎ込むはずのアラル

海も小さくなり、塩分濃度が濃くなって水中にすむ生物がいなくなったとかなんとか。(うろ覚え。)

原因はソ連時代の分業政策にあるそうです。もともと綿花栽培が盛んだったウズベキスタンでは、ソ連時代下に単一栽培を進めるよう急激

な綿花栽培の増加により、アムダリア川の水量の限度を超えてしまったようです。綿花生産では水を大変必要とすると聞いたことがありま

す。この砂漠の中で大規模な灌漑を行った結果なのでしょう。これからどうなっていくのかな…。


さて、橋を渡り切ればもうキジルクム砂漠です。

赤い砂漠という意味だそうですが、みなとが見る限り赤くない……。


あれか、今は雨の多い季節だからでしょうか、砂は湿っぽくて粘土質のようでした。小さな小さな緑も芽吹いていたしなあ。らくだ草の生

育のよさに驚きました。

干上がりつつあるとはいえ、一見広大なアムダリア川が並行して走っていましたが、それが離れていくと本当に砂漠の中の一本道です。遥

か彼方の山嶺とかもなんもなし。


そんな中でぽっと天然ガスのコンビナートが現れたりしますからな、まるで古いSF小説の世界のようでした。



あと、当たり前やんとか言われそうですが、道路と並行してどこまでも電柱が走っているんですよ。これは中国の新疆や九塞溝行った時も

思ったんですけど、ほんま人間ってすごいなあと。

バスで6時間あまり突っ走ったわけですが、その間途切れなく電気が届くように延々と電柱が立っているんですよ。はーすごいや。

もっとも、その電柱はすべて木材でしたけど。いやほんと、切り出して製材所で切りそろえただけのカクカクです円筒じゃないです




ブハラに入ったところで曲を流してくれると言うので、ウズベキスタンの民族音楽?と楽しみに待ち構えていたら流れてきたのは、




喜●郎


…………悪いとはいわないが、いや好きですけど、別にここで聞かなくてもいいかなあまた眠くなるし…。

その割に「キャラバン・サライ」が一度も流れなかったのは何故だ。


※中高年日本人をシルクロードの虜にしたNHK特集「シルクロード」シリーズの音楽担当。「キャラバン・サライ」はその番組の主題曲

です。当時シンセサイザーの曲作りは相当斬新だったとか。
posted by みなと at 21:04| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月28日

すたんーずほてほて その5。

〜ヒヴァ・写真篇〜



といっても回線激遅なんで、三枚だけ。



_030 ハレム。







_035 城壁。ここまで登りました。(ばか。)







_039 夜明け。起きた甲斐はありました。

posted by みなと at 01:24| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月27日

すたんーずほてほて その4。

桜、早いですねえ。



〜ヒヴァ・余談篇〜


このヒヴァへは、まず日本からタシケントに着いてそこからウルゲンチへ国内線利用、それからバスでヒヴァに到着、という順序だったのですが、この国内線で一悶着。

みなとは飛行機大好きな方で、窓から雲海や成層圏の蒼を眺めるのが好きなんですよ。で、運良くこのとき窓側のE席に当ったのですね。やったーと乗り込んでみれば、マイシートに恰幅のいいおじさまがどかああっと座っている。

ちょっと待ていと思いつつ、搭乗券の半券を示して、どいてくださいなと穏健にジェスチャアしたら。


「オウ?」という感じで自分の隣にどうぞときました。


ぷち。


E席は私の!と今度は強めにジェスチャア。(英語ができないって悲しいですなあ…。)したら、おじさまはパスポートから自分の半券を出して見せてくれました。


………。

やっぱりあんたD席じゃねえかあああああ!!!


「ゆーあD!あいむE!(反対側の座席から順に指差しつつ)A!B!C!D!E!」


みなとは何歳児のお子様ですか。

むきになった甲斐あって無事に窓際確保。正真正銘のバカです。ヤーポンの評判落としてどうする。



さ、話を変えましょう。


ヒヴァですが、ひと通りの観光を終えた後に自由時間が頂けたので、イチャン・カラの城壁沿いにぼけらーっと歩いていました。うまくいけば、城壁に登ってみたいなーとか。(煙と何とやらは上りたがる……。)


史跡群から旧市街に入ったところでありました、角度45°にしか見えない上り坂ですが。
よいしょよいしょと登ってみたら一望にイチャン・カラ内部が見渡せるし、弓兵のための小さな穴とか見れてかなり満足。城門の上部に当る部分がゴミ捨て場と化していたのには驚きましたが見なかったことにして、城門の屋根を写真に撮ったりとひと通り遊んで。


問題は下りだって……。


その日は昨日の日記にも書きましたが、雨が降ったり止んだりですごく滑りやすかったんです。で、道自体は土なのですが完全に踏み固められていてですね、ぎゃーぎゃーへっぴり腰で下るはめに。

それをみた小学生の男の子が登ってきて手を貸してくれたときはちょっと恥ずかしかったですが、すごいよ、ジェントルマンだよこの子!(多分小学二年生くらい…。)おばさんうれしいよ!(恥を知れ。)



そんなこんなで、次の日は夜明け前に起床して(眠い…。)ヒヴァとおさらば…のはずだったのですが。


何故か主要道路が完全封鎖。

何事ーーーー?!これってヒヴァ脱出不可能ってことですか?!


バスの運転手さんもマジギレおこして、「ならどこから行けッちゅうねん!」というオーラがみなとにも見えた気がしました。(言葉は分からないので。)ウズベク語でボルテージが段々上がっていきます思わず血圧を心配するほどでしたよ。


結局、抜け道というか、農道をがたがたと走って無事警戒網を潜り抜けました。

後でガイドさんが教えてくれたのですが、何でも町外れで殺人事件が発生していたそうです。……あーそんで、昨日はぬかるんでいたから、足跡採ったり逃走路を封鎖していたわけだ。

あ、補足しますが、これはさすがに日常茶飯事のことではない、とのことです。実際、ガイドさんとか若い人や添乗員さんと一緒に夜呑みに行ったりしていましたからね。ブハラやサマルカンドで、ですが。(みなとは旅行中は異常に早寝になるので無理。)


なんでみなとは旅行行くとネタに事欠かないのだろう……。

posted by みなと at 22:32| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月26日

すたんーずほてほて その3。

やっとこさ熱が下がりました。ううう、体力が相当削られてしまいました…。いまだ弟PCハイジャック継続中。


〜ヒヴァ、イチャン・カラ篇〜




イチャン・カラ、とは「内城」を意味するそうで、ヒヴァの要塞都市の要だったようです。
ぐるっと土で付き固められた城壁の中には宮殿やモスクにミナレット、メドレセ、廟などが数多く残された一角と、残りは旧市街(現在も住民が暮らしています。)で構成されています。


この内城だけでお腹一杯です。旧市街は未だに日干しレンガの住宅で、電線こそ張り巡らされてはいますが、当時の世界に紛れ込んだ気分に。


ここではじめて知ったのですが、入場料以外に撮影料が必要なんですね。
うーイスラム建築とか文様とかばしばし撮るつもりだしなーと財布をもそもそ。あ、ちなみに、カメラとビデオカメラは別料金です。ビデオカメラの方が倍額基本なので。ツアーの中で一人ビデオな人がいて「差別だー。」と泣いておりました。


入ってすぐに目に入るのはお土産屋さんの列…ではなくて、やたらと太いくせに高さの足りない感じのミナレットです。カリタ・ミナルといって、未完成のまま放置されたもの。ですが、淡い緑がかった青が綺麗なんですよね。モザイクがとても綺麗。それと並んでいる建物がモハメドアミン・ハン・メドレセ。神学校跡です。


お次はクフナ・アルク。ここは七宝のタイルが見事でしたねー。あれだけの量のタイルをどうやって間違わずに職人さんたちは組み合わせていたのかというと、タイルの端に数字が刻まれていて、それにそって釘で固定していったそうです。

一方、天井の文様は木材に直接彩色されているとか。ここには仏教的な要素も見て取れるとか何とか。(うろおぼえ。)

イスラム建築といえば『青!』なイメージしかなかったのですが、天井などは意外に赤が多様されていて驚きました。


ここでお昼の休憩を挟んだのですが、うっかり爆睡寝坊。添乗員さんにたたき起こされました皆様スミマセン…。


で、午後の観光開始………って雨降ってるーーーー?!
砂漠性気候なところで雨に遭うとは予想外でしたカムバック青い空。


午後の一番手は、パフラヴァン・ムハマド廟。要は墓地群なわけですが。
この地域では基本は土葬だそうです。ですが、地表は干からびていても、地下には水脈が結構近くに流れているらしいのですね。ですから地中に埋めてしまうと腐敗してしまうわけです。そこで、地上の上に台座を作ってその上に遺体を安置させ、それを覆うようにレンガで家を作る感じ。なので、お墓はみんな大きいです。へー。


お次は、イスラム・ホジャ・アンサンブル。ミナレットとメドレセがセットになっています。
こちらのミナレットはヒヴァで最も高く、45Mもあります。
でもそんなこたどうでもいい。
まさか羊が生贄にされるその瞬間を目の当たりにしそうになるとは思わなんだ。すごく立派な角を持った羊でしてね、大の男が数人がかりでその場所へ運び込もうとしていましたよ。
チキンみなとはナイフが首に当てられた瞬間逃げました。
一回り見て戻ってきたときには、その場所には真っ赤なペンキのような血溜りが。ふーん羊は人間みたく黒くならないのかしらと思って振り返ってみれば、捧げられた羊の解体真っ最中…。
こういった生贄の儀式はすべて男性が行うそうです。女性はノータッチ。


次。金曜モスク。10世紀から900年余り修復を重ねて使用された、212本のコラム(柱)を持つモスクで、遠方からの巡礼者のための宿泊所もあります。
何世紀にもわたる修復が重ねられたためか、コラム一つ一つの文様や材質も異なり見ていて飽きません。最も古いコラムはとにかく太かったです。文様もごつごつしてしまって年季入っています。三箇所ほど天井が開いていてそこから採光しているためかずいぶん幻想的です。


最後にトシュ・ハウリ。ハレムです。
王の部屋があり、その隣に4人の妃の部屋が四つ。それらに正対するように、妾たちの住まいがあります。いったいどんな大奥展開が繰り広げられたのでしょーか。怖。
この4人の妃たちの部屋ですが、一つ一つ意匠がわずかに異なっているのですね。植物と星の文様だけでこれだけのものを作り上げた昔の工人のすごさに感嘆します。
ご存知のようにイスラム教においては人物や動物を描くことは禁じられています。多くの制約の中からこのような素晴らしいモザイクや絵文字を生み出したことに敬服です。
けして、自由であることが芸術活動を発展させるための必要条件でないんだなあと現代を顧みてみたり。
posted by みなと at 15:37| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月25日

すたんーずほてほて その二。

サイトのほう、留守中にもぽちぽち拍手してくださってありがとうございます。多謝!


〜ホテル篇〜




どんなびっくりホテルがあるのかと思いきや、比較的普通でした。(何を期待しているんだ。)
でもまあそれなりにいろいろと。


ドアノブが回すタイプではなく、ボタンを押さえる式の形だったりして。コレが曲者でしてね、体重乗せてドアノブ壊す勢いでないとボタンがびくともしないのですよ。トイレ緊急事態のときは半泣きでした。


トイレといえばとあるホテルでは水を流すと便器から飛び出す勢いで水が流れるんですよ。ひぃ。最初はみなとが壊したのかと思いましたよ。まー詰まったり流れなかったりするよりマシか。


石鹸とシャンプーだけはサービスで付いていました。歯ブラシとかはなし、スリッパもなし。シンプルです。
あ、タオル類はあります。バスマットはバスタオルを半分にぶった切ったまま使用という感じで四角の一辺はほつれまくりだったり、バスタオルだって端がぼろですが、使える限りは使うぞな感じ。もうどれがマットでどれがタオルなんだ。置かれていた場所で判断です。


あと、時計などは壊れていても直さない。
部屋だけじゃなくてエレベーターのエントランスのでっかい時計も時間狂いまくり。今いったい何時なんだ。
ツアーのほかの人の部屋では時計の窓ガラスが壊されていたにもかかわらず放置されていたそうです。もちろん、アラーム機能も使えません試してみて寝坊しかけました。
コンセント口もそんな感じで、つかえない箇所にはマジックで“×”が書かれているだけなんです。直そうよ、冷蔵庫使えないやん。


民宿に泊まったときはシャワーはありましたが、浴槽はありませんでした。そしてシャワーのすぐ横にはトイレと洗面所。
ここでシャワーを使ったら全部使えなくなるな………。一泊だったので使いませんでした、さすがに。シャワーカーテンもないから床が全滅するのが目に見えてる。部屋はめっちゃ広かったですよ。10人は泊まれるだろう部屋にベッドが二つしか置かれてないってどゆこと。伝統文様の絨毯とか楽しめたからいいけど。


ブハラのホテルではバイキングだったのですが、ここの給仕のおっちゃんがやる気満々で大変でした。何がって、皿持ってポテトを頼むと皿からあふれ出すほどにポテトを積み上げ、「まだいけるだろ?」という感じのジェスチャアを。
喰えるかあああー!!アメリカ人じゃないんだぞ!日本人は胃がちっさいの!タッパ見りゃわかるだろーが!
なんとか減らしてもらって別のものを頼むと、ポテトの上から更にたんまりと。聞いちゃいないなー。他のものが食べられないやん。


そうそう、両替は要注意でしたね。計算が大雑把なのかさくっと1000スム単位で間違えられたりするそうです。枚数が多くてうんざりしても必ずその場で数えること。ほんと教訓です。
スムは1000スム札が最高で、500スム、200スム、100スムとお札があるのですよ。20ドルも両替すればかなりの札持ちになれます。ホテルによっては500スム札で全部出してきたりするからさあ大変。札が50枚にもなります財布がはちきれる。
物価は少しインフレ気味な気がします、その、お札の金額に比べて、ですが。スーパーなんかでも意外に1000スム単位。現地の人たちはどんな財布を使っているのだろう…。


まあ、なんだかんだとそれなりに快適に過ごせましたよ。
posted by みなと at 11:47| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

2007年03月24日

すたんーずほてほて その1。

ゆず茶飲みながらぽちぽち書いています。そいうえば、ゆず茶とゆずジャムってどうちがうのでしょうか。



〜出入国篇〜


日本でもテロ対策強化のため、3月1日から空港での荷物検査が厳しくなりましたね。ありていに言えば、手荷物に水分禁止。出国審査とか全部終わった後、空港の売店で飲み物は買うようにということですね。(歪曲しすぎ。)あれか、自販機価格で買えと。むうう。



スケッチ用の水彩絵の具の水つぼの水も引っかかったら困るし、国土交通省のいうことをやるのはめんどいので、空にして、これもゲートをくぐってからトイレで水を入れました。



うんうん、われながら前回の教訓を生かしているなあ。(中国行ったとき手荷物にカッターナイフを入れて、中国で引っかかった。)



まあいまは通達も出たばかりなので、税関側も頑張っている感がありますが、三ヵ月後くらいには元の木阿弥でしょうねー。
とか思ってたんですよ。



とりあえず成田はもう危険です。



何がって。
今回利用したのはウズベキスタン航空です。派手な飛行機ですよ。機体が国旗の色にカラーリングされているので、(背中が青、お腹が緑、間は白。線は赤。)目立つ目立つ。
で、その飛行機はウズベキスタンの首都タシケント発→成田→関空→タシケント、とぐるっと回るように飛んでいるのですよ。
そして、危機管理対策ということで、関空まで行くお客さんも、いったん成田で降りないといけないんですね。で、再度乗る時はまた手荷物チェック。



水彩用の水つぼに水がたぷたぷ入っていました。(忘れていた。)
手荷物問題ナシでした。



ペットボトルしか見てないかもしれない………。



次、ウズベキスタン。
やっぱりというか何と言うか、暇そうな人がいるから受付フルオープンしてくれと思うみなとがいらちなんですかね。
でもまあほほえましいっちゃほほえましかったです。一つのブースに二人の職員さんが入っていて別々に入国審査を受け付けているのですが、みなとの相手はおじさん。隣は若者。キータイピングの速度が倍以上に違うのが傍目にも良く解るって言うか。いずこの国も同じか。



出国は厳しいです。コートも靴も脱いで、金属探知機をくぐらないといけないわけです、ぺたぺたと靴下で。貫禄のある縦も横もでっかい女性職員が指示するんですから逆らえるわけがないですええ。



なんというか期待通り引っかかりました、手荷物。洗いざらいカオスなザックの中身をぶちまける羽目に。わーん!
や、でもほんとに今回は心当たりがないんですよ。



で、若い男性職員(というか軍なのかな。)がはじめに手にしたものは、うさぎのぬいぐるみ
しばらくぽかんと眺めてました。みなとだって穴があったら入りたかったよ…!
さかさか振って、突き出たお腹を押されて、とりあえずうさぎにはお咎めなし。
そして次。



出てきました白い粉。個袋に分けられたものがいくつもな。



ダッシュして上官の指示を仰ぎに行っていましたが、ごめんそれ、ただの胃薬…………。

上官のオッケーが出たのか、晴れて無罪放免でした。冷や汗。「sorry,Ms.thank you.」って感じ。

ウズベキスタンでは手荷物の重さはあまり問題にされないそうですが、預けるほうの荷物は20kgオーバーするとかなりうるさいらしいです。お目こぼしは1kg以下。
長距離飛ぶし当然かと思い、1kg超過あたりいくら?と質問がツアーの人から出ましたが、添乗員さん曰く「係員によります。」

………はい??てことはあれか、つまり袖の下と変わんないって事か!ちなみに領収書も出ないそうです。ちょっとしたスリルだなー。(まず間違いなく20kg超えないみなと。)


んで、タジキスタン。こちらは陸路入国です。
更に暇そうな人たちが(以下略)。
ここでは入国出国に1時間はかかると聞いていましたが理由がわかったというか。
担当者が一人しかいねえ。や、正確には二人なんですが。

まずはじめに一人が、ノートに手書きでパスポート番号等記入。
で、次にもう一人がパソコンでデータを…………ノートはいらない気がする……。

今回のツアーは最少催行人数ぎりぎりだったので良かったですが、20とか30とか大人数だったら大変ですね。

posted by みなと at 20:30| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇

帰ってきました。

昨日帰国いたしました。
インフルエンザクラスの風邪っぴきというオプション付きで。
全然熱が下がんないよう。おそらく保菌は日本出国前だな、内科に直前に行ったしな。

現在マイパソが手元にないので弟のパソをハイジャック中です。おおう。

しばらくはこのブログで旅行記なるものをしてみんとするなり。(どうでもいい。)

行ってきたのはウズベキスタンとタジキスタンです。都市で言うなら、ヒバ→ブハラ→ペンジケント→サマルカンド→タシケント。

そもそもウズベキスタンってどこやねんと言われそうですね。
場所は中国新疆ウイグル自治区の隣、キルギスタンのさらに隣。それか、アフガニスタンの上にタジキスタンがあってその更に上にウズベキスタンがあります。ソ連崩壊と共に誕生した、だいたい15歳くらいの若い国です。

やばそうな国と思ったあなたは外務省ホームページへどぞ。
ウズベキスタンは長期滞在には多少危険があるかもですが、比較的治安はいいほうですよ。JICAの職員さんもふつーに歩き回ってますし。

そのへんについてはおいおい。

通貨は『スム』で、相場は1ドル≒1250スムです。観光客が出入りするようなところはドルも通用します。もちろん、じゃぱにーず円は通じません。

気候は砂漠性の気候のため冬は極寒夏沸騰らしいですが、この三月はあまり日本と変わりないです。

そんなかんじ。

posted by みなと at 17:29| Comment(0) | てくてく・中央アジア篇