2013年04月11日

三国志ガーデン2周年プレイベントに行ってきた。そのご。

 間が開いてしまった…。ラストです。

 以下個人的めも書き。
 『龍谷大学竹内准教授「三国志Q&A」』陸伯言のぶん。

Q.三国志演義では白面の青年と評される陸伯言は、なぜ横光三国志ではおじさんになったのか。
A.美形は主人公というのが連載当時の流れだったのでは。憶測に過ぎないが。また、実際、夷陵の戦いのとき、陸伯言は数え39歳なので壮年といえる。

Q.孫仲謀が皇帝となったとき、文武官の筆頭は丞相である顧元歎であるとして、ナンバー2だったのは「上大将軍・右都護」の陸伯言と、「大将軍・左都護」の諸葛子瑜とどちらなのか。
A.官職の上下についてはいろいろ議論があるが、おそらく陸伯言が上位。
 まず、都護について。儒教では左が重んじられるため、行政官では左が上位となる。しかし武官は右が上位であることが多い。呉ではわりとしっかりその原則で動いている。将軍名の後ろに都護が来ているので、これは軍事職と考えられる。
 将軍職について、上大将軍という職が初めて出来たのは漢の呂后の時代と考えられる。三国において上大将軍を使用しているのは呉のみのため、位置付けが難しい。孫子明の元では上大将軍の呂定公ではなく大将軍の諸葛元遜に実権があったがこれは特殊な形態。また「元興元年八月 以上大將軍施績 大將軍丁奉為左右大司馬 張布為驃騎將軍 加侍中」とあるように上位の者から並べるのが普通と考えられるので、上大将軍が上と考えてよい。

Q.陸伯言の戦功は外征にないので、治安維持(荊州統治)が主な任務なのか。それとも陸伯言が外征に消極的なのか。
A.呉で積極的な征戦を行ったのは孫伯符のみ。外征を必要としない国家である。孫仲謀の外征は合肥戦くらい。

Q.裴松之はなぜ陸伯言を酷評するのか。
A.どのように批判しているかというと、石陽において民を殺したことを諸葛孔明の北伐と比べたり、魏の人間(逯式)を手紙で陥れたことを代わりが来ると言っている。また、陸幼節が歩闡の乱において赤子に至るまで殺害したことも非難している。裴松之が陸機、陸雲を文人としてどう評価しているか、が問題。二人の悲惨な末路を祖父、父の行為に求めたのではないか。

Q.陸伯言が流罪になった、というちくま訳は誤訳か。
A.誤訳。主語の取り違い。また、当時丞相だったので孫仲謀伝に記事がないのは不自然。陸伯言はこのとき荊州の守りについていた。

Q.陸伯言の妻(孫伯符の娘)は以前に若死した朱紀や顧邵の妻であった可能性はあるか。
A.別人。孫伯符の娘は三人と考えられる。顧邵には子がおり、生母は孫伯符の娘。子持ちの寡婦が正妻として再嫁することは異例。何平叔の母親にしても曹孟徳の正妻となったわけではない。朱紀は出仕しているので極端な夭折とは考えにくく、弟のことではないか。

Q.陸伯言の改名はいつごろか。名と字は対ということなので、伯言も改名か。
A.字は改名しなかったと思われる。陸議の「議」と伯言の「言」で合わせている。数え52歳の段階で魏書では「議」として記録されている。(明帝紀、青龍2年5月の記事)また、蜀書も「議」として記されている。対外的には「議」を使用していたのかも知れない。改名の時期は不明。呉書で「遜」となっているのは遡及的なものではないか。他に三国志で名を変えているのは、李正方とケ士載。

Q.「呉の四姓」の呉とは国か、郡か、県か。
A.呉郡呉県の四姓であるが、呉郡を代表する四姓であり、揚州を代表する大姓。人口が最も多いのは予章郡で二番目が呉郡。しかし揚州の中心は呉郡でありインテリが集まりやすい。

Q.山越と呉の名家の違いは。
A.山越は史記から出てきている。少数民族というより、元々呉越などに属していたが国家の統制を離れた集団と捉える。山越討伐は呉という国を作り上げるための戦争であり、税金を納めさせるために統制しようとしているので全滅させることもできない難しいものだった。

Q.二宮の変で陸伯言は殺されたのか。
A.孫仲謀に問責されて憤死(憤恚致卒)となっている。個人的イメージは脳溢血などか。致卒という表現は陸伯言の伝のみの使用例で、もし自害であったならば、他の人物の伝でも使われているのではないかと思われるので病死ではないか。

Q.三国志演義で陸伯言を翻弄した八陣図とはどのようなものか。
A.諸葛孔明の伝に「亮性長於巧思 損益連弩 木牛流馬 皆出其意 推演兵法 作八陳圖 咸得其要 云」とあるが、具体的にどのようなものか言及はない。(八陳と書かれているが、これが八陣か?)三国志演義での陣のイメージは、杜甫の詩「八陣図」に描かれた「功蓋三分国 名成八陣図 江流石不転 遺恨失呑呉」のうち「江流石不転」という言葉から広げたものではないか。

Q.諸葛元遜への忠言で恨まれることはなかったのか。
A.政治で最も重要なのは人事と言ってもいい。陸伯言ほどの位のものになると、人事について意見することは義務といえる。

Q.都督と大都督と太守の違いは何か。
A.まず、郡太守は行政官。都督という言葉はもともとは動詞で「都」はすべて、「督」は監督する、ということ。「曹真都督関右」などの文言がその例となる。詳しくは、三国志研究第一巻の石井仁氏の論文に書かれている。都督は動詞から官職名にスライドしたもので、呉蜀で先に使われ始め、のちに魏も使用するようになった。同じようなものに、録尚書事もある。
posted by みなと at 23:01| Comment(0) | 三国志関連の講演会
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。