2013年03月26日

三国志ガーデン2周年プレイベントに行ってきた。そのさん。

 先生が姜伯約とケ士載の小説書きたいと思ってもう何年って言った瞬間、机を叩いてひっくり返したかったです。なにそれ超読みたいんですけど!読みたいんですけど!!

 以下個人的めも書き。
 『龍谷大学竹内准教授「三国志Q&A」』魏文長のぶん。
Q.「葫蘆谷の戦い」における諸葛孔明による魏文長の謀殺未遂(演義103回)は卑劣な行為、という考え方はないのか。
A.卑劣、ではなく「酷薄」という認識。明代の演義(1590年代)には書かれているが、清代の演義(1660年代)の毛宗崗本では削除されている。

Q.正史本文に引かれている韓信の故事にならい諸葛孔明と違う道をとり潼関で落ち合う策と、魏略の長安直撃策は同じものか。
A.言っていることは同じと思われる。韓信の故事というのは、漢の高祖が三秦(長安)を陥落させたルートで韓信の進言によったとされている。諸葛孔明の取る漢中から祁山を目指す策は西に大きく迂回しているため、子午道を通り長安を目指す方が最短距離になる。ただ、潼関の場所が問題で、長安の東、洛陽の西にあり、潼関で落ち合うという策は、長安を陥落させる前提で話がなされなければ、挟撃される可能性がある。実際は長安の西にも潼関があったのか?馬超伝でも潼関に攻め込んだ話があるが、ここに到達するには長安を通過していなければならないはずだが、長安を陥落させたという記事がない。

Q.楊威公が魏文長をののしる際に使った「庸奴」の「奴」は「奴婢」以外に「成り上がり者」「無教養者」の意味もあるか。
A.漢書張耳伝に「庸奴」の用法がある。ここでは愚夫の意味で使われている。これが原義か。

Q.魏文長は北伐時、諸大将軍(鎮北将軍?征西大将軍?)でありながら丞相司馬という、諸葛孔明の部下というのは不自然では。
A.蜀の職制はかなり特殊。北伐時、諸葛孔明の府である丞相府ごと遠征。成都に留府を置き、長史の蒋公琰に所管させ、また、北伐先にも丞相府があり、行政のトップとしての長史に楊威公、軍部のトップとしての司馬に魏文長を置いた。

 ……わりと雑いメモだな…。
posted by みなと at 23:27| Comment(0) | 三国志関連の講演会
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。