2009年12月16日

いつかこの続きを書きたいな。

「琴を。琴を持って来い。」
 市場に引き出されてきた罪人は傲然とした態度を崩すことなく言ってのけた。刑吏達は鼻白んだが、相手は当世に名を轟かせた詩人であり、粗略に扱うわけにも行かず、風雅さの対極にあるこの場で琴を探さねばならなくなった。
「これをお使いなさい。」
 右往左往する刑吏たちの前に、琴がひとつ、差し出された。士人というには痩せた半白の髪の男だった。着ている服、冠の梁を見るまでもなく、朝歌に於ける高位の貴人と知れる。受け取った刑吏は、恭しい態度を崩さぬ程度には礼を心得てはいたが、彼が何者か知る筈もない。
 罪人が僅かに振り返り、貴人の姿を目に止めると、皮肉気に唇を歪めた。「腐儒が。」とその唇が動いたように見えたのは、貴人の思い違いだっただろうか。
 差し出された琴は、螺鈿を施された見事な造りのものだった。しかし、それが観賞用のものではなく、相当に使い込まれたものであることも、琴の第一人者でもあった罪人にははっきりと判った。
 この琴に何を沁み込ませたいのか、無念か、怨嗟か。しかし俺はお前とは違う。わが心に在るのは幽憤のみ。お前には決して理解のできぬ、それでいて近しい感情だ。
 手枷を外され、弦を爪弾く。どこか鈍い鈴のような音が響く。音を噛み締める様に二度三度、調律を確認していく。確かに、こまめに手入れは為されているらしい、直に澄んだ音に変化する。
 罪人はひとつ、深呼吸をすると、静かな曲を奏で始める。咎無くして死ぬ身を、最早嘆くことも無い。
 無心に爪弾かれるこの曲を、貴人は聞くことを望んでいた。それが断末魔の淵に奏でられる絶叫でも構わなかった。名が伝わるばかりの秘曲を聴くためだけに、自分はこの場に来たのだと。必ず、かの罪人はこの曲を弾くことを判っていたのだ。
 それを知りつつ、奏でる罪人の心中はとても静かなものだった。波立たせるものはひとつも無い。心置きなど、元から持っていなかった。ふと我が子の顔が横切ったがそれも一瞬だった。放蕩の父など忘れるがいい。清澄な音の中で真っ先に心に描いたのは、お前でなく自分の兄だったのだから。自身を投影させるほど近しかったのは兄だったのだから。
 この兄弟の交情を、理解できるのか、お前に。
 想いの矛先は貴人へと向けられる。忠を忘れ、見せ掛けの孝を尽くす滑稽な男。己の肉親同様、憂憤の心を抱くことも無く、保身に生きる唯の抜け殻。
 しかし、その心中の罵倒も、何時しか細波に洗われ元の清澄な世界へと還って行く。
 曲は徐々に激しさを隠した仮面をかなぐり捨て、怒濤の如く音を刻み始める。喜怒も無く、悲哀も無く、唯あるのは無為の世界に横たわる荒涼とした大地ばかりだった。音自身に感情など無い、音に哀調を感じるのはその人自身が哀しいからだ――、自らの唱えた論に従うならば、今自分の心中は荒野にあるのかと問うことも忘れた。その大地に吹き荒ぶ嵐を只管、奏でることに没頭していく。
 自分はここへと戻っていくのだ。四海の彼方にある筈の、遠い彼岸の世界は自分をどう迎え入れるだろうか。数少ない交流のあった友人たちの顔が浮かび、また泡の如く消え去る。自分が先に玄妙の世界に到達することを、嗚呼、君は喜んでくれるだろうか。
 そして、自らが奏でた最後の音で我に返った。
 市場は、物音ひとつしなかった、……ように感じられていたが、実際は我関せず、と日常の慌しさに埋れるままに駆けずり回る、民草の姿があった。それこそ、在るがままの自然だった。誰もが、自分の生を支えるのが精一杯の世界に、何を求めて死に臨んだ曲を聴く酔狂な者がいるだろうか。
 そのことに思い当たり、罪人はひどく可笑しさを感じた。
 背後で、騒がしさが一層増す。そして、金物の磨れる音が響いた。
 罪人の目には、もう、琴を貸した貴人の姿も、猥雑な市場も、唯一振りを待つ刑吏の姿も、映ってはいなかった。映るのは、どこまでも青く広がる空ばかり。そう、空と云うものがこれほど澄んだ蒼をしていたことを、自分は随分長い間忘れていたのだ。それは、自らも汚濁の中に居たが故なのか、理由を問うことは無かった。美しいものは美しいと、そう、信じていれば良かったのかも知れぬ。



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ケイ康と荀景倩。

posted by みなと at 19:45| Comment(0) | くうのふたひ。こばなし
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