2021年12月08日

『大谷吉継研究の最前線』講演メモ

 吉継カフェの記録集の第二巻が発行されましたね、やったー!通販もできるようですのでぜひぜひ。→敦賀市立博物館物販ページ
 前置きはさておき。2021年12月4日(土)敦賀市プラザ萬象小ホールでの開催された吉継Cafe第19回『大谷吉継研究の最前線』。講演者はいつものように、奈良大学教授の外岡慎一郎先生です。今回の講演は、充所を大谷吉継としている2通の書状を元にした研究の経過になります。
 こちらに参加してきましたので、以下、個人的な適当メモを。
 (昨年の吉継カフェについてはこちらで動画が公開されているので、今回もそうなればいいなあ。)

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1.天正14(1586)年2月21日付 羽柴秀次書状(賀茂別雷神社文書)
 上賀茂神社へ丹羽長重より強引に寄宿の申し出があり、羽柴秀次へ上賀茂神社から訴えがあった件につき、大谷吉継と平塚三郎兵衛尉に対しても免除を説得して欲しい、とした文面の書状。
 当時、聚楽第の建設が突貫工事で行われていたことが、『多聞院日記』やルイス・フロイスの『日本史』から窺える。(『日本史』では京都のこの時期の、聚楽第の造営、後陽成帝の御所の造営、大仏殿の建造が記されている。)また、羽柴秀次自身も吉田郷に陣取をしようとしていたが、吉田兼見が施薬院全宗の仲介で回避に動いていたことが『兼見卿記』に記されている。大名たちがそれぞれ、聚楽第造営のためのベースキャンプ地を必要としていた。 丹羽長重が上賀茂神社に寄宿を申し出たのは、父・長秀が織田信長時代より、長く上賀茂神社の取次を務めていたからだと考えられる。上賀茂神社の出納帳には、丹羽長秀への付け届けの記録も残っている。
 この書状には2月21日という日付のみ記されて、何年かは不明だが、次のようにして特定した。まず、宛名を「大谷刑部少輔」としているので、大谷吉継が刑部少輔に任官したのは天正13年7月ということから、天正14年以降ということが分かる。次に、羽柴秀次の署名が「孫七郎」となっており、羽柴秀次は参議に昇進した天正14年11月以降、「孫七郎」の署名を使用していないため、それ以前であると分かる。以上のことから、この書状は天正14年に書かれたと確定することができる。
 では、大谷吉継にとって天正14年とはどういう時期であったのか?『宇野主水日記』の天正14年2月21日の項目には、奇しくも「千人斬り」についての記述がある。『宇野主水日記』においては「大谷紀之介」が首謀者であるとの噂を記しているが、『多聞院日記』においては3月の項目に大坂で千人斬りがあり、大名衆の腕自慢の者たちや大名衆子息たちが捕らえられ処刑されたと記されている。そして、天正14年3月にはフロイス書簡から、大谷吉継が大坂城においてコエリョやフロイスといった宣教師たちを接待したことが示されている。 ここの想像を逞しくすれば、あるいは聚楽第造営にかかるダークサイド・ストーリーがあったのではないか?大名衆子息・腕自慢たちの千人斬りは聚楽第造営の開始時期に横行しており、そのなかで大谷吉継の首謀説が流布されている。羽柴秀次は聚楽第造営の総監督ともいえる立場で、豊臣秀吉の直臣である大谷・平塚に対し紛争処理の協力を依頼しているこの書状から、この二人が支援を行っていたのではないかと推測される。大谷吉継らは官位においては諸大名たちに及ばないが、豊臣秀吉の権威を背景に諸大名の統制を行っていた。そして豊臣秀吉は際限のない軍役や普請を大名たちに強いている。この大名たちの不満が政権組織の末端である実行者、大谷吉継たちへ向かうのもおかしくない。憂さ晴らしとしての千人斬りの横行、そして大谷吉継への罪のなすりつけとして冤罪となったのか?
 なお、この書状において並んで記されている平塚三郎兵衛尉が平塚為広ではないか、という話もあるが、先生は疑問が残る、現時点では判断が付かないとしている。大谷吉継と平塚の名が並んでいる書状はこの1点しかないが……。この平塚三郎兵衛尉は播磨の人で、豊臣秀吉が本能寺前に播磨で戦っていたとき、いち早く豊臣秀吉の元に来て功を上げていることは分かっている。

2.2月10日付(伝)千利休書状(坂東宗稜旧蔵、徳島市立徳島城博物館所蔵)
 大谷吉継が茶会に参加することを歓迎し、相客がいることの了承を得る文面になっている。 この文書については現地調査が必要だと考えているが、まだ果たせていない。千利休の手紙は西郷隆盛のように贋作が非常に多い。千利休の文書は真贋の判定が難しく、取り扱いに注意が必要である。この大谷吉継宛の書状は、存在は判明していたが使用して良いか腰が引けていた。
 千利休の書状については、まず、50年ほど前に網羅した本が出版されている。桑田忠親『定本千利休の書簡』というもので、当時はこの書状は個人蔵とされていて、且つ真筆だと判定されていた。しかし徳島市立徳島城博物館に寄贈された際の調査で疑義が出され、現在は(伝)と注釈されている。
 桑田氏の著書のなかで、この書状は天正15年のものとしているが、先生自身はそこまでの確信はない。先程の書状のように、大谷吉継が刑部少輔に任官した後であるとして、天正14年以降、また相席する客として名が出ている「河尻肥前守」、河尻秀長が肥前守を名乗るのは天正15年以降ということから、天正15年以降ということは分かる。そして千利休が切腹するのが天正19年2月28日なので、下限が天正19年となる。その間の大谷吉継と千利休の行動を追っていく。
 天正15年、大谷吉継は九州出兵の準備を行っていると考えられ、1月24日に中村某に安芸通路の警護指示書状を発給している。そして3月1日に豊臣秀吉が大坂を発ち九州へ向かうのに、大谷吉継も帯同しているのではないか。一方、千利休は1月12日に大坂朝会に神屋宗湛を招いており、4月末に九州に発っている。2人は2月に大坂で顔を合わせている可能性が高い。
 天正16年については『利休茶湯記』という年間の茶会の記録が残っており、2月4日から7月28日までの茶会がないので、この年の文書である可能性は低いと考えられる。
 天正17年、大谷吉継は堺奉行となっている。また、2月11日に小早隆景宛に大仏材木催促をする豊臣秀吉の朱印状を取り次いでいる。千利休の2月の動向は不明だが、1月に大徳寺聚光院に米を寄進し、3月24日には榊原康政宛の書状が残されている。2人とも大坂、京あたりにいる可能性は排除できないので、可能性はある。
 天正18年は3月1日に小田原征伐に豊臣秀吉が向かっており、2人とも帯同している。それ以前となるので、可能性は、まああるだろう。
 天正19年はこの同じ月に千利休が自刃しているので、その直前に2人が茶会をする可能性は低いのではないか。
 先生としては、天正15年、17年、18年までは絞ることができるが、それ以上は難しいと考えている。
 書状本文中には大谷吉継の名はないが、端裏捻封に宛名が上書されている。桑田氏の本では記載はないが、「〆大刑少殿」の横に「人々御中」と記されていることを、博物館に電話して確認している。この「人々御中」というのは敬意を表した宛名書きで、現在では「御机下」などと使われる類いのもの。
 現在は(伝)とされているが、この書状は本物なのではないか。もし贋作であれば宛名を大谷吉継にするだろうかという疑問がある。千利休の書状を偽作するならば、他の茶人や弟子たち、例えば古田織部や細川忠興であれば喜ばれるだろうが、石田三成宛の書状すらないのに、大谷吉継にする理由がないのではないか。
 大谷吉継の文化的資質については史料が僅かしかないため不明である。和歌は『厳島図絵』における一首のみである。茶会への参加記録は『宗湛日記』にいくつか名前は見えるが、石田三成ほど多くはなく、ほぼ、石田三成と増田長盛とセットである。大谷吉継は敦賀城主であったが、敦賀の文化レベルは高いといえる。前の敦賀城主である蜂屋頼隆は連歌や茶を良く嗜む文化人として知られていた。また敦賀郡司といわれた朝倉氏なども文化人を輩出している。現存している史料で判断すれば大谷吉継の文化的事績は少なく、土地に馴染めたのかどうか。しかし、この千利休との交流があったとすれば、また評価が変わってくるか?
posted by みなと at 21:51| Comment(0) | 大谷吉継関連
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