2021年10月15日

三国志学会 第十六回大会

 2021年9月5日(日)に行われた三国志学会第十六回大会のメモです。YouTubeのライブで見ていました。
 ちゃんとした発表論文は『三國志研究』第十六号に掲載されると思います。

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 敬称略で失礼します。


<「禿髪樹機能の乱」再考(小野響)>

 禿髪樹機能の乱とは、泰始6年(270)6月から咸寧5年(279)12月の間、秦州と涼州の胡族を中心に起こされ西晋を悩ませたた戦役を指す。
 その首謀者とされた樹機能はなぜ「鮮卑」禿髪とされるのか?『晋書』禿髪烏孤載記において系譜の中に出てくるが、これは作為的に加えられたのではないか。世系の比較などで疑わしいと考えられる。また、樹機能の対峙した将の肩書きには「羌」が多く使用されている。 では秦州の抱えていた胡族の問題とはそもそも何であったのか。秦州は泰始5年5月に新設された。秦州の西部から涼州には後漢末以来、多くの氐・羌が居住しており、東部にはケ艾によって移民された鮮卑が居住していた。しかし、地方官による胡族の動員、圧迫があり、初代秦州刺史であった胡烈は辺境地域統治の人材としての資質に疑問が持たれていた。結果、政策として失敗し、戦争になった。早期に刺史を殺害したため、西部の反乱が東部にまで広がっていった。


<匈奴劉氏の歴史認識(長谷川大和)>

 なぜ匈奴が漢の劉氏を名乗り、漢王朝の復興を掲げたのか?それは当時の人から見て、漢代をどう見ていたのかという問題意識につながる。
 劉宣の「漢と兄弟であった」「呼韓邪の事業の評価」は漢の美化ではなく、漢の時代の自分たちの美化。自分たちが尊重されていた時代の懐古か。
 対して、劉淵は漢の高祖を自らの祖のように語り、匈奴単于を漢の歴史に接続している。
外部集団である晋人も漢を思慕しているという歴史観の上に、支配のロジックとして匈奴の子孫であるがゆえに漢の後継であるという論法を用いた。


<覇陵橋は何処だ:「五関斬六将」再考(竹内真彦)>

 現在、許昌の郊外に覇陵橋があり、テーマパーク化されている。しかし、三国志演義では覇陵橋を長安近郊としていなかったか?
 三国志平話においては、献帝が洛陽へ帰還する話はなく許昌への遷都もないので都は長安のままであり、曹操と関羽が別れたのは長安である。また、三国志演義では2回覇陵橋に言及されており、最初が長安にて楊奉と董承が献帝を奉じる場面であり、2回目がこの話である。だが、演義の版本でも新しいとされる版では橋の名称が削除されている。また許昌に覇陵橋があるとしているのは、演義以前にも雑劇の脚本のなかにある。
 そもそも、演義の描く関羽千里行のルートは許昌発ではなく長安発でなければ、地理的に整合性がとれない。
 版本で、覇陵橋という地名のミスが残っている方が古いのではないかという推測。そして現在、24巻本には覇陵橋という地名が残っているが、20巻本にはない。


<香る荀令君―詩文の中の荀ケ像(狩野雄)>

 荀ケの香について言及している最も初期のものは『芸文類聚』に引かれた「襄陽記」であるが、ふたりの人物の会話の中でたとえ話として出てくるものである。そして唐詩のなかで詩語として詠まれる用例は数多い。
 しかし、『三国志』ではその賢徳が称えられても、直接香りについての言及はない。香りは文脈によって徳について語られているのではないか。


<『三國志』東夷傳の思想構造(渡邉義浩)>

 後漢時代に定められた華夷思想だが、三国・西晋時代にはまだ成熟したとは言いがたく、どのように異民族と向き合っていったのか。
 三国時代においての論語の読み方では、中華が乱れたときでも、東夷であれば礼によって教化が可能な地域とされていた。陳寿が東夷伝において書こうとしたのは、その土地の風俗ではなく、東夷に残っているはずの礼を描こうとしたのではないか。
 「親魏」という称号は倭国と大月氏のみに与えられている。大月氏の使者は曹真が、倭国の使者は司馬懿が連れてきている。客観視すればこの二国は規模も文化のレベルも大きく異なっているが、西晋で官途に就いていた陳寿は司馬懿の功績を大きく見せる必要があった。そのため、考古学の成果と東夷伝を直結するのは危険である。
posted by みなと at 17:50| Comment(0) | 三国志関連の講演会
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