2020年11月06日

戒光山西教律寺記の記録について

 京都新聞の2020年11月5日に配信された記事です。
 こちら

 滋賀県の西教寺にて、明智光秀関連の文書の公開に関する記事なのですが、掲載されている画像に大谷吉継の内容が含まれているので、できる範囲で文字おこししてみました。


「天正ノ間大谷刑部少輔吉隆公(越之前州敦賀城主采邑五万七千石慶長五年庚子九月十五日逝法名曰渓廣院殿一峯白頭大居士)造客院若干楹及諸檀信勠力營齋堂僧廚(住持真乗上人納〇正乾)」

 〇としているところは読み取れなかった箇所です。あと、「若干」と読んでいるところも、「若十」かもしれない……?(もしくは他の字)
 適当な読み下しですが、

「天正の間に、大谷刑部少輔吉隆公(越之前州敦賀城主、采邑五万七千石、慶長五年庚子九月十五日に逝く、法名曰く、渓廣院殿一峯白頭大居士)客院と若干の楹(※若しくは十楹)を造る、及び、諸檀信、力を勠(あわ)せ、齋堂僧廚を営む(以下略)」

 という感じでしょうか。
 天正年間に大谷吉継が客院と柱を建造した、ということだと思うのですが、記述がいろいろ不思議なことが多くて。
 そこで、こちらがその西教寺のホームページなのですが、この境内案内に客殿についての解説があります。引用しますと、「もとは豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、慶長3年(1598)に大谷刑部吉隆の母・山中長俊守内室が寄進したものです。二列に配置された室にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれ、賢人の間の内仏は京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来座像(重文)です」
 もちろん、ここでいう客院=客殿かどうかは分かりませんが、記述が混ざっているのかなあ……。もしくは、画像で掲載されている他のページに、母より寄進したという記述があるのかもしれませんが。

 この『戒光山西教律寺記』自体が、江戸時代以降の執筆なのかなーと思うのは、大谷吉継の名前が吉隆になっているところですね。ところで話は逸れますが、いつごろから吉隆の名前が流通したのでしょうか。関ヶ原でも少し古めの道しるべとか、吉隆とされてますよね。不思議。
 それは横に置くとして。ここでは法名が「渓廣院殿一峯白頭大居士」となっているのが気になります。Wikipediaに掲載されているのは、たぶん敦賀市の永賞寺のものではないかと思うのですが、「渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門」。微妙に違う。
 そういえば、戒名といえば、関ヶ原にある大谷吉継の供養塔ですが、整備事業のときに調査をしたら、そこに書かれている戒名もどうも伝わっているものと異なる可能性があるという報告もあったはず……。

 そして西教寺のホームページにつるっと大谷吉継の母が山中長俊の妻だと書かれているのですが、どういうことなの……。
posted by みなと at 22:33| Comment(0) | 大谷吉継関連
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