2020年02月03日

『秀吉を支えた奉行たち』

『秀吉を支えた奉行たち 水口岡山城主増田長盛と長束正家を中心に 甲賀と豊臣政権』
 昨年の12月22日に甲賀市の碧水ホールで開催された歴史講演会です。講演者は九州大学教授中野等氏でした。2月も講演会があるみたいですね。こちら

 とりあえず、以下に個人的なめも。

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<秀吉を支えた奉行たち>
 奉行はだいたい三期に分かれる。ただし、U期の人名はこの頃から出てきたひとという意味で、T期のひとと入れ替わったわけではない。T期のひとはその後もずっと活躍していく。

T期:天正11年〜14年(豊臣政権初期、九州平定まで。)
(蜂須賀正勝・杉原家次・黒田孝高・前田玄以・浅野長吉・増田長盛・石田三成・長束正家・小西行長・大谷吉継・富田一白・宮部継潤・木下吉隆・施薬院全宗・石田正澄・片桐且元・片桐貞隆・安国寺恵瓊・細井正成・安威守佐・尾藤知宣・森吉成・森高政・森重政)
U期:天正15年〜19年(豊臣政権天下統一。九州平定から関東平定。)
(前田利家・細川藤孝・蒲生氏郷・蜂須賀家政・戸田勝隆・中江直澄・杉原長房・山口正弘・早川長政・山中長俊・木食応其)
V期:その後。(略)

 このうち豊臣政権20年間のメインとなるのが次の10人で、その中でも序列があった。

@前田玄以・宮部継潤A浅野長吉B増田長盛・石田三成・富田一白・大谷吉継C長束正家D木下吉隆E山中長俊。

 ここでメインというのは、大名としての面もあるが、奉行としての面が特に色濃いもの、としている。当時の手紙は、宛先は先から出てくる名前の席次が高いが、手紙を出す方は後に出てくる名前の方が席次が上で、それを元に判断した。彼らの具体的な職種は指定されず、何でも屋さんだった。
 前田玄以は朝廷との遣り取りを行っていた。場合によっては天皇の相手ともなるので最上位であったと考えられる。宮部継潤は近江浅井氏の元家臣であり、秀吉が長浜城に入る前から仕えていた。山中長俊は六角氏に仕えていたこともあった。木下吉隆は秀次に仕えていたこともあり失脚していく。富田一白は奥州伊達氏の取次をしていたが途中で外されていく。長束正家は富田、大谷が席次を下げていく中で台頭してきた。

<中村一氏>
 秀次家老の近江時代の石高は不明だが、家康が駿府から江戸に移されてから秀次が尾張に入った後の石高で、序列はおおよそ予想できる。中村一氏は秀次家老のトップだったと考えられる。
 水口岡山城を作った中村一氏と姫路城を作った池田輝政は義兄弟で、輝政の弟長政がのちに3代目の水口岡山城主である長束正家を滅ぼす。池田氏は水口の地と因縁が深い。
 中村一氏は奉行というよりも大名の側面が強い。中村家は後に断絶してしまうので、わからない点が多い。

<増田長盛>
 石田三成の15歳年上でかなり老練な政治家と考えられる。増田の後輩、弟弟子としての石田。上杉景勝との交渉での序列は、@木村吉清(明智の家臣だったといわれている。)A増田B石田、と考えられる。石田はまだ奏者としては修行中だったか?
 増田は検地などの行政史料が多く残っている。
 仮説ではあるが、増田は瀬戸内海域の船手衆(水軍)を束ねていたのではないか。のちに水口の城主となる加藤嘉明が淡路を領していた頃、増田が加藤に命令する文書がある。他にも来島通総、菅達長に宛てた書状がある。
 小田原攻めより安房(千葉)で里見氏の指南をしていた最中に水口への転封が決まり、慌てて畿内へ戻ってくる。甲賀・伊賀は治めにくい土地なので、行政をきちっとできるひとでないと任せられない。そこを任せられる増田の手腕は評価されていた。
 朝鮮出兵においても、増田が船の支配をしていた。戦前の朝鮮半島の観光パンフレットには、朝鮮半島のどこに大名が陣を構えたか、といった細かい説明のものが出版されていた。
 文禄4年の検地において、北関東(佐竹領)と南九州(島津領)の検地は地元にやらせていたが、越後上杉領には増田自身が入って行って検地を行った。しかし、その途中に秀次切腹事件が起こり上杉景勝は慌てて京都へ行くが、増田はそのまま残って検地を続けた。これは増田の性格を示すエピソードではないか。

<長束正家>
 長束は史料がほとんど残っていない。
 奥州検地で1クラスの奉行が皆、出払ってしまう。そのため、秀吉周辺に残っていた2クラスの奉行が台頭するチャンスが生まれる。その中で、長束も頭を出した。
 近江の検地は豊臣のお膝元なので、天下の基準をつくるための検地として重要だった。そこで長束は帳簿ではなく地図を作らせた。そのため村の境界が確定した。これを踏まえて、日本全国に絵図を作るよう奉行衆が連署で大名に命じた。
 越前検地の主催も行った。越前は旧丹羽長秀領であり、旧丹羽家臣であったのでやり方を知っていたのではないか。

<奉行の体制>
 秀次自害後、文禄4年の秀吉と秀頼への起請文から、前田・増田・長束のグループと(豊臣家の財政を司る)、富田・石田・木下のグループに分かれていた。それを併せて六奉行としていた。また、大政所が死去したとき、二大老として徳川と前田が命じられているが、両方とも、何かが起こったときの代理人、臨時の配置と考えられる。
 五奉行は秀吉没後の体制であり、自分の遺言を執行するものだった。ゆくゆくは秀頼への天下の継承のため、ある程度の永続性を期待していた。五奉行は、浅野が抜け四奉行に、そして石田が抜け三奉行へと収斂していくことになる。 徳川幕府においては譜代などは中央で権力を得るが、石高は低い。外様には権威を与え、石高は高いが幕閣への発言力はなかった。豊臣では同じような関係を築こうとしたが(奉行らは近江周辺で石高は小さいが中央での権威が高い)、失敗した。

<城主3人のイメージについて>
 中村は調停役。田中吉政がやりすぎるのを宥める。増田は清濁併せ呑む見えすぎるひと。関ヶ原において、どちらが勝っても秀頼が生き残る配慮が必要だったゆえの行動。長束は兵糧管理ができる真面目な人物。そろばんがはじけて実直。三奉行の中で長束のみが滅ぼされている。奉行政治の失敗の責を負わされたのも真面目さ、頑なさゆえではないか。


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 パネルディスカッションでもいろいろ興味深いお話が聞けましたが、ほぼ割愛しています。あと、近江や甲賀の地理感覚がちょっと私わかっていないので、その重要性とかも講演されていましたが、ばっさり削っています……ただでさえ自信のないメモに、さらに不安なもので……。
posted by みなと at 17:19| Comment(0) | その他講演会など
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