2017年06月20日

『ここまでわかった大谷吉継』

 6月11日(日)に敦賀市立博物館で開催された吉継カフェ『ここまでわかった大谷吉継』に行ってきました。講師は外岡慎一郎館長です。
 吉継カフェは1回目から8回目までの内容を冊子にされてて、それの売り上げ次第で続きが出るか決まるということなので、興味のある方はぜひぜひ。敦賀市立博物館のHPで通販のご案内されてたはずです。
 以下いつもどおりの雑めもです。

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 今回は『ここまでわかった大谷吉継』ということで。これまでのCafeの内容のおさらいになります。今年度は2回目にこれまで何が判明していないか、3回目に江戸期にどうしてヒーロー像として描かれたか、を見ていく予定です。

 大谷吉継は父親が判明しておらず出自が不明なので、どのような家庭環境で育っていたのか分かりません。しかし10代には出仕しいていたと考えられるため、それより早く親元から離れているかもしれません。
 出自についてはこれまで大きくふたつの説がありました。第一に豊後の大友氏家臣としての大谷家、第二に近江(旧余呉町)大谷家です。第一の説は1980年代に刊行された国史大辞典に記載され、石田三成が豊臣秀吉に大谷吉継を紹介したという話への流れとともに知られています。しかし、実際には大友氏に大谷という家臣はおらず、また大友宗麟が豊臣秀吉に接触を図ったのは天正14年〜15年であるため、大谷吉継の出仕時期と大幅にずれがあるため、この説は成り立たないと考えられます。第二の説は地域の伝承として残されているもので、事実、京極氏の家臣に大谷氏は存在するのですが、豊臣秀吉に仕えるための道筋がありません。
 母親については東殿であると判明しています。岡本良一著『戦国武将25人の手紙』で初めて指摘されたのではないでしょうか。また、1592年、東殿が大谷吉継のための祈祷を依頼したときにその年齢を28歳であると記していることから、生誕が1565年であることが分かります。願い事のとき、本人の生年は非常に重要な要素なのでこちらが正しいです。軍記物ではなぜか関ヶ原戦没時に42歳と書かれるものが多く、1559年生誕説が流布していますが、これは改められるべきものだと考えています。(国史大辞典に難癖を付けている自覚はありますが、この辞典が編纂されている時点で既に指摘されていたことなので、どうして反映されていないのか……とのこと。)大谷吉継が年上であることを元に石田三成との逸話が語られていることが多いですが、この内容の検証については今後の課題だと思います。また、そもそもなぜ42歳没という年齢にしたのか、その謎についても追究する必要があるでしょう。
 東殿については、『天台座主記』に「寺家(延暦寺)執当後家東」が秀吉に近侍、という記述があります。後家というのは夫を亡くした女性という意味もあるので、あるいは大谷吉継の父親は延暦寺の周辺にあるのかもしれません。
 大谷吉継の姉妹にとして判明している人物に、興正寺坊官である下間頼亮の妻、小屋がいます。下間頼亮の父親下間頼廉は石山本願寺で対織田信長戦において活躍しています。
 真田丸展でも展示されていましたが、太宰府天満宮に奉納された鏡に大谷吉継の縁者の名が記されています。東・小石・徳・小屋と並んでおり、小石と徳のどちらかが妻と娘であると推測されます。娘はおそらく、真田信繁の妻となった女性でしょう。この鏡の文字は陽刻のため改竄しにくいものです。大谷吉継には男子の実子がいません。しかし、立場上、妻がいないとも考えられません。娘については養女の可能性は否定できないでしょう。

 歴史史料上、初めて大谷吉継が現れるのは1578年、元服前の大谷慶松という名で草刈景継宛の信長朱印状を携えていたものの毛利氏の兵に奪われるという話です。『草刈家証文』の中にある伝承ではありますが、関ヶ原の戦い以後に毛利氏へ待遇改善を求めた文書の中でも類似の話が載せられています。架空の話で取りなしを願う文書は作成されないと思われるのでだいたい事実であると見て良いでしょう。この頃には大谷吉継は出仕していたことになります。
 石田三成らとともに賤ヶ岳の七本槍に次ぐ戦功があったという巷間の話もありますが、おそらく槍働きには向いておらず、全く異なる働きを認められていったと考えられます。
 1585年、従五位下刑部少輔に叙任され、源吉継を名乗ります。源平交代史観が当時あり、織田信長は平、徳川家康は源という氏を名乗っています。そして豊臣という氏を豊臣秀吉は創設しました。氏を呼ぶときは「みなもとの」というように「の」が入り、名字で呼ぶときは「の」は入りません。どうして大谷吉継は源を名乗ったのでしょうか。父までは宗教家であったともいえるので、武家としての立身を目指した抱負としての源であったのかもしれません。
 千人斬りの噂については『顕如上人貝塚御座所日記』に記されており、当時、大谷吉継の病については噂になるほどに知られていたか、もしくは噂によって陥れようとする動きがあったのかもしれません。しかし、病を得ていても、フロイスら重要な客を相手に接待をしてもいます。

 大谷吉継の文化活動で知られているものはあまりありません。『厳島図絵』に「都人に ながめられつつ しま山の 花のいろ香も 名こそたかけれ」という自作の歌が残されていますが、出来は平凡であまり上手いとはいえないですね。一般に軍記物に書かれている歌などは、実際には別の人のものだったりします。大谷吉継の辞世の句と言われているものも、本物かどうかは分かりません。
 神屋宗湛の日記には茶会での記録がされていて、その参加度からも文化水準を考えていくことはできます。
 大谷吉継と石田三成の友情を示すような史料はほぼありません。唯一の史料が神屋宗湛の日記に残されている、石田三成の配慮により博多興徳寺で茶器を鑑賞した、という記事です。
 1587年の九州遠征において、実戦部隊でもあった黒田氏・小早川氏・吉川氏などとも人間関係を構築したと考えられます。
 1589年、徳川家康と面会するという記事が『落穂集』に書かれていますが、これが事実かどうかは不明です。
 奥州仕置では、出羽の検地を担当しています。このことで上杉景勝や直江兼続との関係ができたのでしょう。そして朝鮮出兵において、最長老格の小早川隆景に開城からの撤兵を勧め、「弁舌の人」と評されています。
 直江兼続宛に草津での湯治について書状を出していますが、これは原本は残っておらず、新潟県史や草津史料集に採録されています。この頃から表向きには史料に現れなくなってきているので、病が深刻化し引退に向けて真田信繁と自分の娘を婚姻させたり、養子を取るのもこの時期でしょう。
 大谷吉継の中央での活動がなくなった頃から、出羽からの建材を敦賀で荷揚げし移送を始めています。太閤板といわれるもので、1596年に起きた慶長伏見地震により倒壊した伏見城の復興にも使われることになります。その再建した伏見城も関ヶ原の合戦の前に石田三成らが焼いてしまったので現存していませんが……。
 太閤板の移送が中央政界から身を引いた大谷吉継が敦賀に入ったことで行われた、という直接的な関係があるかどうかは、明確に言うことはできません。

 これから考えていくことになる大谷吉継の謎については大きくふたつ挙げることができます。ひとつは父親を誰とみるかということ、もうひとつはなぜ徳川家康派であったのに石田三成に同心したのか、ということです。石田三成と異なる思考をする人物としての大谷吉継にはどのような固有の対立事情があったのか、今後の課題であると思います。

posted by みなと at 22:35| Comment(0) | その他講演会など
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