2016年12月08日

『大谷吉継の関ヶ原V 慶長5年7月11日』

 今年に入ってから大河ドラマにはまってしまいまして。まさか日本の戦国時代についてちょこちょこ気になるようになるとは思ってもみませんでした。
 ということで、12月4日(日)に敦賀市立博物館で開催された吉継カフェ『大谷吉継の関ヶ原V 慶長5年7月11日』に行ってきました。講師は外岡慎一郎館長でした。とても面白かったので、また機会があったら行きたいなー。
 続きから個人的なメモをだらだらと。内容の正確さを問われるとかなり厳しいです……覚え書き程度と思っていただければ。(そういうのはいつもどおりですが。)

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『大谷吉継の関ヶ原V 慶長5年7月11日』 於:敦賀市立博物館

 7月11日以降西軍の動きが活発化する。軍記類では大谷吉継が石田三成の決意を知る日付に異同はあるが、二人の決意が固まったとする日付はだいたいこの7月11日で一致している。佐和山で石田三成自身から決意を聞いたとする軍記が多いが、垂井において石田三成の使者から聞いたとする軍記も少なくはない。大河ドラマ『真田丸』においては場所として垂井が採用されていた。
 果たして、石田三成の挙兵を大谷吉継が元から知っていたかが問題となる。

 所謂佐和山謀議においては『慶長軍記』(著:植木悦、寛文8年(1668年))、『落穂集』(著:大道寺友山、享保12年(1727年))など、大谷吉継の説得は理路整然としているが、石田三成は血気にはやり焦りも見て取れる。その石田三成を大谷吉継はクールダウンさせようとしている。これら軍記物の書かれ方により、関ヶ原の戦略は大谷吉継が描いたとの印象付けがなされていたが、実際はどうだったか。
 石田三成と徳川家康の差については、まず家格の問題がある。豊臣秀吉は貴族社会の官位制度を武家社会に転用した。その中で、豊臣秀吉は左大臣、徳川家康は内大臣となり、この家格制度の中で徳川家康の地位は別格だった。同じ五大老の中でも、前田利家は大納言、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は三位の中納言、治部少輔・刑部少輔などは五位であり、その差は歴然としていた。また、家格の差は石高にも反映され、徳川家康は250万石、石田三成は19万石、大谷吉継は5万石であり、ひいては動員できる兵力の差に直結していた。
 また現状においては、石田三成は政権から追われており、このまま戦に持ち込んでも反乱として処理されてしまう。どうやって石田三成に戦の大義を与え、徳川家康を反逆者とするのか問題だった。(政権を追われる引き金となった七将襲撃事件では、石田三成は徳川家康の元に逃げ込んだとの話もあったが、現在では伏見城の治部少丸に石田三成が逃げ込み、七将が伏見城内では事を起こせないとして兵を引いたというのが実際だろうとされている。)

 徳川家康による上杉討伐の発端となった神指城構築について、直江兼続と石田三成との共謀とされることもある。直江状の宛名は西笑という禅僧であり、石田三成や直江兼続とも親しかったとされる。
 佐和山に引退してから挙兵に至るまでの約1年間の石田三成の動静についてはいくつか残されている書状などがある。
 慶長4年12月27日付の書状では、九州にいた相良長毎に対して送られた漆の礼と、島津家のお家騒動である庄内の乱が落着するまで上洛をしないことに賛同する旨が記されている。
 また、慶長4年7月6日の『鹿苑日録』の記録より、徳川家康が大坂の石田三成邸を訪問していることもうかがえる。つまり、石田三成は引退後も大坂に出かけることがあったということになる。そして、石田三成の失脚後に代わりとして動きが活発になっている石田正澄の邸宅に、徳川家康は7月12日に滞在しており、その記事の中に「石田治部殿ハ城外也、木工殿(正澄)者城内」とある。大坂における石田三成邸は大坂城内と城外に一軒ずつあり、城外という記載より徳川家康が訪れたのは現在の備前島にあたる場所にあった邸宅だと考えられる。この邸宅は宇喜多秀家邸と隣り合っており、備前島という名称も、備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家に由来している。
 慶長4年10月6日には、徳川家康が柴田左近を使者として佐和山に派遣しており、石田三成はこれを歓待し贈り物をしている。『板坂卜斎覚書』では使者に対しての贈り物しか言及されていないが、当然、徳川家康にも贈り物はなされていたと考えるべきである。板坂卜斎については徳川家康の妻の主治医ということで、彼の残した覚書ということで史料の信憑性はある程度あるのではないか。
 徳川家康は石田三成の動向を観察していたが、必ずしも両者の間は没交渉ではなかったことが見て取れる。
 しかし、『西笑和尚文案』に記載されている慶長4年8月末の記事より、石田正澄から手紙を送るのは「御法度」である、とあり石田三成の蟄居は他人との交渉を制限されていたようである。「文案」とは手紙の写しを残していたものであり、誰に対してどのような形式で書くのか、書式例として記録した覚書である。この『西笑和尚文案』は相国寺の史料集として活字化されている。この記事では「幸便を得」たとされているので、出入りする商人に託すなどの連絡手段を見つけたと思われる。そして、この手紙の中で西笑は石田三成の「御上洛」を期待している。
 石田三成が会う人間を制限されていたとすれば、大谷吉継はその交友からも最重要人物と考えられるので、蟄居の間に二人はほぼ会えなかったのではないか。
 また、直江兼続との共謀については、石田三成から直江兼続への書状として『続武者物語』(著:国枝清軒)に記載されたものがあるが、信憑性には検討が必要である。上杉氏の公式史料として上杉景勝年譜などに収録されていないため、孤立した史料である。しかし、内容そのものは実際に起こったこととして外れてはいない。石田三成の計略がこの時点で始まったかどうかは検討が必要である。
 慶長5年6月の段階で、上杉景勝は上杉謙信の法要を理由に会津に残り、毛利輝元は毛利元就の法要を理由に領国に戻っている。また、前田利長は徳川家康に謀反の疑いありとして加賀に戻され、徳川家康は上杉氏討伐に会津へ向かっており、五大老の中で大坂に残っているのは宇喜多秀家のみであった。石田三成が大坂城入りするのは容易い状況だったといえる。


 この間、大谷吉継の動きはどうだったか。
 文禄4年(1595年)から慶長元年(1596年)の動向は不明である。慶長2年(1597年)には実質引退をしていたようだが、石田三成の失脚後、再び政権に復帰したと考えられる。慶長4年10月2日の島津忠恒あての書状(『島津家文書』)では、病中故の無沙汰を詫びる一文が記されている。この頃の書状には誰に対してもこの一文を文頭に付していた。
 慶長5年4月26日の連署状(『堀家文書并系図』)は本物かどうか検討を要するが、宇喜多騒動でも協同した榊原康政と連名になっており興味深い。
 慶長5年6月19日の書状(『筑紫家文書』)では、大谷吉継は筑紫広門に対してこちらを訪ねて欲しいと書き送っている。この日付は徳川家康が上杉氏討伐に伏見を出立した次の日に当たる。このとき京極高次は徳川家康に後事を託され、大津で西軍を迎え撃つことになるが、その西軍の中に筑紫広門も入っていた。

 慶長5年7月11日以降、西軍の動きが急速なものになっており、石田三成と大谷吉継の謀議はこの時初めて成立したのではないか。もし事前に大谷吉継が謀議に与していれば、以降の動きはもっと早くに始まっていたのではないか。石田三成の徳川家康への対抗策は、大谷吉継の参画により具体化したのではないか。
 奉行衆の取り込み、毛利輝元の大坂城入城、伏見の人質確保、そして慶長5年11月17日に内府違いの条々により西軍側の大義を表明した。

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 次回は来年3月12日の予定とのことです。先生が吉継ロスになってますっていうの分かりすぎる。
posted by みなと at 22:23| Comment(0) | その他講演会など
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