2016年05月22日

三国志ガーデン最終講座『三国志ノススメ』

 つらいです……三国志ガーデン営業終了してしまいましたね……。ジオラマ自体は同じ最寄り駅の近くにあるホームセンターにて引き続き公開されるということですが。(あれは!ほんとすごいから!)他の展示物どうなるのでしょうか。レッドクリフの衣装とか小物とか。あれ見るのも好きなんだけどな…らくがき魔としては、とても参考になるし。ガーデン内で公開してたアニメとか、三国志ゆかりの地の写真とか。それに魏の二十四将像とかどうなるんでしょうか、あれもかっこいいので継続して制作して欲しいなー。そんなあれこれの展示物をぜひ継続して長田商店街のあちこちで見ることができるようになればなあ、と祈っております。
 ガーデンは営業終了ですが、物販とか商店街内での石像やら看板やらあれやらこれやらはちゃんと残っているので、そちらはまた見に行きたいですねー。あと一度は行ってみたい三国志祭。10月でしたっけ?
 そんなこんなで。
 最終日の龍谷大学の竹内真彦教授による講座『三国志ノススメ』に行ってきました。続きからは講座のメモです。相変わらず正確性についてはアレでソレ。

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 演義がメイン研究(なのかな?)の先生吼えるの巻。という感じで、ぶっとばすペースはいつもどおりです。
 ここに聞きに来るようなひとたちは、こんな文庫本900円でも買っちゃうけど一般人にしたら高いよね!うちの学生なんですけど!みたいな感じで紹介されたのは安定の岩波現代文庫だったので、そりゃあ高いわー、って先生自己ツッコミ相変わらずきてます。
 ということで今回の講座のタネ本は『歴史を哲学する 七日間の集中講義』(著:野家啓一、岩波現代文庫、本体980円也)です。資料に使われているのは『三国志・魏書』と『弱虫泣き虫諸葛孔明』(著:酒見賢一、文春文庫)と『論語』です。

 「三國志」と「三国志」について。
 これは、酒見氏が小説内で言及している区分ですが、「三國志」を正史三国志を指し、「三国志」を演義などの物語系を指しています。その上で、先生は書誌的に言うのであれば、無印の三国志と称されるべきは「正史三国志」であろうということです。ただ、今回の講座では便宜的に酒見氏の言い回しを使っています。

 日本における<サンゴクシ>の受容について。
 「三國志」系(正史三国志系)…上位概念としての「歴史」つまり「正しい」
 「三国志」(三国志演義)…物語。大抵のひとはこちらから入ってくる、そして興味を持った人は「三國志」に流れていき、「三国志」を「誤っている」ものとして戻ってこない。
 先生は、この、歴史を無批判に上位概念とする姿勢はイラッとする、としています。

 そこで投げかける「問い」。
 「歴史」(「過去」)とは何か?(このあたりから、タネ本である『歴史を哲学する』での主張が入ってきます。)
 「過去」とは何か。「過去自体」はどこにも存在しない。「過去」とは「想起」されることによってはじめて「実在」する「理論的存在」である。(ここでいう「想起」というのは個人的体験である。)自分の経験した「過去」以外の「実在」を担保するためには、「間主観的」に「想起」されねばならない。そして言語のみがそれを成し得る。(野家氏の用語では「過去物語り」「歴史物語り」)(物語る、というのは言語によって思い出す、ということ?)

 「歴史」とは?
 未来からしか物語る(=想起する)ことができない。換言すれば、未来において必要があるゆえに、歴史(=過去)は物語られる。今起きていること、個人が体験したことが未来においてどういう意味を持つか、今日の段階ではわからない。そして、記録をすべて寄せ集めれば、過去が完全に再構成できるか?というと、それはできない、触ることができない。
 では、なぜ我々は<サンゴクシ>を物語るのか?ということに対する答えは、「知的遊戯としておもしろいから」ではないのだろうか。
 そもそも、魏書武帝紀で裴松之が指摘しているように、史の言には潤色が多い。(孫盛の魏氏春秋に引く、「将生憂寡人」という文章は春秋左氏伝に全く同じ文章がある。)また、魏書国淵伝より、一次資料ですでに数字に狂いがある、ということも分かる。(「破賊文書」は成果を過大に報告することが一般化していたことが伺える。)
 答え合わせができないのが歴史であり、論理的整合性で考えていくことになる。

 遊戯だからルールがある。
 「三國志」が「正しい」か否かは本質的な問題ではない。「三國志」は読み難く、齟齬が多いからこそ、それを読み、物語り、「間主観的」に「実在」を検証する作業がこの上なく楽しい。そして、「物語る」ことによって<サンゴクシ>は「実在」する。
 歴史のフィルターは外せない、という立場に先生は立っているそうです。
 客観・主観という二項対立のものの見方がそもそも落とし穴ではないか?客観はそもそも存在するのか?(認識論において不可知では?)そこで導入されるのが「間主観的」という概念。これは人々が共有する「主観」のことである。

 結論:「三国志」=「三国志演義」も歴史である。
 「三国志演義」は三国時代から1200年ほど後に、「間主観的」に「物語ら」れたテキストである。時間的な距離の遠近は「間主観的」であるかどうかを決定する唯一の要素ではない。
 そこで、「三國志」派のひとたちも、理解した上で、もう一度「三国志」に戻ってきてみませんか。ということでした。

 余談として、孔門十哲のそれぞれの呼ばれ方について。
 孔門十哲には、字に「子」を持つ者が6人だか7人だかいるはず。しかし、顔回子淵は顔淵と呼ばれ、端木賜子貢は子貢、宰予子我は宰我、と必ずしも字で呼ばれていないのはなぜか?ということについて、先生の予想では、当時は一文字の字の者もいて、「子」というのは尊称ではないか、ということでした。(先生自身が疑問に思い、一応推論を出して、でもよく分からないなーとぼやいてるあたりが実に先生っぽい。)

 ところで。
 せっかくこれまで三国志について講座をしてきたし、ここでそういった場が途切れるのはもったいない、ということで、先生が主催する「三国志研究会」(全国版)をやろうかなー、という話があるそうです。
 ということで、第1回の研究会「吉川三国志冒頭をツッコみながら読んでみる」他、が開催されるとのことです。日程は6月26日(日)16:30〜19:00(16:15にJR大阪駅桜橋口集合)、場所は龍谷大学大阪梅田キャンパス(ヒルトンプラザウエストオフィスタワー14階)、参加費無料、とのこと。(終わったあとに飲み会になだれ込むかもね、みたいな話もちらっとされてたような。ひょっとしたらそれは第2回以降かもだけど。)
 参加ご希望の方は、ツイッターアカウント(@3594ken)もしくはメール(info@3594.info)までご連絡ください、とのことでした。

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 『歴史を哲学する』という本、そういえば積読にしてたなーと思って、この講義聴いて手を出して、まだ読んでるの途中までなんですけど、かなり面白いです。出てくる用語自体は、どうしても哲学特有のものも多くて難儀するんですけど、学部生向けの講義を念頭において書かれているので、語り口は入りやすいと思います。(そして用語については、一日目の終わりに「いちいち説明を加えていると話が先に進みませんので、もしわからない用語があったら書き留めておいて、あとで哲学事典にでも当たってみてください。」って書いてるあたり笑う。)
 野家氏の立場は「歴史の物語り論(ナラトロジー)」であり、「神の視点」を否定する立場とのことです。(ざっくり切りすぎですが。)この本の54ページに「人間の視点はいかに上空に飛翔しようとも、歴史の外部に立つことはできないのです。われわれは歴史の内部に属し、歴史的出来事に巻き込まれながら歴史を認識し記述するほかはありません。その意味で、歴史は常に有限のパースペクティブをもった一定の視点からしか語り得ないものなのです。」と書かれています。(歴史の多元性を認める立ち位置なんだと思います。)そして、「物語り(ナラティブ)」と「物語(ストーリー)」は厳密に区別されています。
 ……ごめん、私まだ真ん中あたりまでしか読めてないんですよね…。解説は無理です……。でも先生が講義でタネ本にしたのは、よく分かるわーという内容です。興味のある方はぜひ。
posted by みなと at 14:26| Comment(0) | 三国志関連の講演会
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