2016年04月24日

三国志事件簿講座『鍾会叛乱未遂事件・後篇』

 4月23日(土)に三国志ガーデンで開催されていた講座のメモです。
 講師は龍谷大学の竹内真彦教授です。

 今回の先生のぼやきは、新学年が始まって中国語を担当されているそうですが、学生は教える側の鏡だなあとしみじみされていました。(私見:耳が痛い話です…語学にやる気がなかった一学生としては…。)
 あと、タイトル早まったかもしれない、「叛乱」ではなくて「反乱」が正しいのでは?と首を捻っておられました。
 今回の添付資料は、原文の抜粋だけではなくて、先生自身の卒論で作成された演義と正史の比較年表なんかもあったんですけど、(私見:これ書院で作ったの普通にすごくないですか。ワープロってこんな機能まであったのかー。)縦書きなのにローマ数字入れたミスがきついとか、元号が魏になっててこれは許しがたい、リライトして蜀に変えなければとか、先生相変わらず自己ツッコミ激しいです。
 あと漢文読むには『新字源』という辞書が一応基本ではあるらしいです。(小川環樹先生だよ!ということだそう。)

 ということで、続きから講座のメモになります。個人的なものなので、だいぶアラがあるのはいつもどおり。

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 タイトルに鍾会の名を冠していますが、どう考えてもメインは姜維のお話です。姜維の北伐について、演義と正史の比較から、ざっと事件の流れなど。

 まず、姜維は何度北伐をしたか?ということについて。
 「演義」では、諸葛亮は「六出祁山」(正史では5回とされている?)、姜維は「九伐中原」もしくは「九犯中原」と表現している。
 ここで「演義」の成立史にちょっと脱線。現行演義がほぼ成立したのはだいたい17世紀後半あたり。日本で言うなら江戸元禄時代あたり。1644年に清が北京に入城しているので、その混乱を考えると、それ以降だろう、という感じだそうで。起源は150年ほど遡ることになる。その古い本のなかで現存する20巻本の系統で最古のものが「葉逢春本」(全10巻)なのだが、3巻(関羽千里行)と10巻(最終巻)が欠けているため、先生自身の研究には使えない。そこで、この「葉逢春本」の系統でもある「余象斗本」を利用している。(こちらの表記は「九伐中原」)また、年号がついているもので最古のものが嘉靖壬午序本(1522年)でこちらは24巻本の系統になる。(こちらの表記は「九犯中原」)この本には、それぞれの回に標題がついており、基本的に7文字になるようになっている。
 さらに脱線で(でもあとからちょっと関係してくる。)漢字の読み方の問題。中国語では名字になると読み方が変わる字があるそうです。例えば「沈」。ただこれについては、現代では簡体字があるということもあり、名字だと「沈」、しずむという意味では「沉」と書き分けるとか。他には「単」もそうで、「葉逢春」の「葉」もそうであるらしく。先生は「ショウ」と読むそうですが、「ヨウ」と振り仮名がつくこともあり違和感があると。なお、「葉」の簡体字は「叶」で「イエ」と読むらしい、という感じです。
 そして本題に戻って。諸葛亮の死後、延煕元年(238年)以降に軍事行動を起こしているが費禕による兵数制限(一万を超えない兵力しか与えられなかった。)により行動を掣肘されているため、西方侵攻が基本で北伐とはニュアンスが異なる。「嘉靖壬午序本」において「一犯中原」とされているものは、司馬懿による曹爽に対しての軍事クーデターに乗じての軍事行動であり、このときにはまだ費禕は死んでいない。ただ、結果は出せなかったとはいえ、ある程度の規模の軍事行動にも見えるので、このときは費禕も大目に見ていたのか?そして費禕の死により北伐が開始される。『資治通鑑綱目』はそのため、「六伐」と認識している。(先生ははじめ「六伐」という用語を最初に使用したのは『三国志平話』と考えていたが、こちらが初出だろうとのこと。)該当するのは『資治通鑑綱目』巻16の景耀5年(262年)「書法」の綱目で、ここに諸葛亮は六伐し、それは記録されている、しかし姜維も六伐していたが、誰も記録していなかった、記録官は姜維に罪を認めたのか、といったようなことが書かれている。
 ここで、先生は、演義と正史を比較研究する場合、正史だけ読んでいたらダメだと感じたとのこと。
 『朱熹全集』の中に、『資治通鑑綱目』が収録されている。北宋の司馬光が編纂した『資治通鑑』を分かりやすく南宋の朱熹が再編集したものが『資治通鑑綱目』。「綱」はおおざっぱに書く、「目」はこまかく書く、という意味。朱熹は朱子学を大成した教育者。論語から始めるべきだと言い出した人。この思想は三国志演義の成立時に絶大な影響を与えている。司馬光の『資治通鑑』は魏を正統としているが、『資治通鑑綱目』では蜀を正統としている。これは記事の書き方にも表れており、『資治通鑑』では巻76、魏紀8、高貴郷公正元元年(254年)の記事に、「姜維寇隴西」と書かれていることからも分かる。「寇」は賊の侵入という意味で、「伐」は正しいものが討つという意味がある。(私見:元寇ってそういう意味なのねーと。あと、「嘉靖本」の「九犯」の「犯」ってどうなんでしょうね。先生が触れていた気もしますが聞き逃しました。)
 では、演義は「六伐」から何を加えて「九伐」としたのか。
 まず、演義は『資治通鑑綱目』の「六伐」のうち、延煕17年(254年)のものは記していない。(『資治通鑑綱目』では夏に魏を伐したとする。)司馬懿の軍事クーデター(及び夏侯覇の投降)直後の軍事行動を、演義は「一犯(伐)」として認識する。(ただし、「葉逢春本」ではこの行動を「○伐中原」の語を用いていない。使用されるのは「三伐中原」から。)それに加え、景耀元年(258年)に「六伐」を、景耀3年(260年)に「七伐」を設定する。これらはそれぞれ、諸葛誕の反乱(258年正月に鎮圧)と曹髦の逆クーデターという事件を北伐の契機として設定したものと考えられる。最後の「九伐」については、北伐ではなく、難を避けるために屯田したに過ぎない。
 費禕が死んだあとに6回北伐した、というのが妥当か。

 姜維の弁護について。
 後世のみならず、同時代人からも(費禕、譙周など)かなり否定的に評価される姜維の軍事行動であるが、戦略としてはともかく、戦術行動としては魏にとって脅威となっていたように思われる。狄道における王経の敗北により、ケ艾が西にやってきたとき、様々な理由を挙げて、姜維の再侵攻があると指摘している記述がケ艾伝にある。その中に、征西ルートは4つあるので、防備は分散せざるを得ないが、攻め手はどれかひとつに全戦力を投入できる利点がある、また、姜維の軍勢は船で攻め下るので労が少ないが、自軍は陸軍となる、などなど。この征西ルートが、狄道・隴西・南安・祁山ですが、狄道のさらに西は羌族の地であり、こちらから食料は確保できる、また、祁山の麓?には穀倉地帯が広がっているとのことですが、こちらは諸葛亮の屯田の名残か?という認識だったらしい。(私見:諸葛亮の北伐のときは秦嶺山脈を越えるルートも設定してたと思うんだけど、何で姜維のルートは西よりなのかなーと。自分の出身地により地理に明るいというのは理解できるのだけど、このときの駐屯地どこに置いてたんでしょうね。やっぱり沓中あたり?あと、船、というのがいまひとつ分からなかったのですが、この侵攻4ルート、ほぼ渭水(の支流)沿いになるのかな…。突破したら船で一気に上流から長安に攻め下れるんですね。目から鱗。姜維に水戦イメージなかったもので。)
 ところで、演義では諸葛亮死後の時間感覚がかなりおかしくなっている。このケ艾による指摘も演義の111回にあるが、諸葛亮が鍛えた精兵だから、というくだりがあるが、この時点で既に諸葛亮死後から20年経っている。どう考えてもこれはおかしい。また、ケ艾をかなり若く設定しているようにも見えるが、実際は姜維より年上。しかし、姜維も若武者イメージのままのようにも読める。
 姜維の軍事力について、他にも、鍾会が実戦経験が少ないにもかかわらず反乱を企図したとき、姜維の軍事力を当てにしていた形跡もある。脅威についてはそれなりに評価されていたのではないか。

 「姜維一計害三賢」について。(私見:自分の計で自分が害されるとか、一見かっこいいフレーズなのに完全に自滅っていう、この。)
 発生:景元5年(264年)1月18日
 場所:益州蜀郡成都県
 概要:征西将軍(太尉?:辞令が届く前に死んでいる。)ケ艾(?歳)を逮捕に追い込んだ鎮西将軍(司徒?:辞令が届く前に死んでいる。)鍾会(40歳)は成都を掌握し反乱を起こすことを目論む。姜維(63歳)の協力をとりつけ、鍾会は魏の群官を幽閉することに成功する。しかし、帳下督(文書官のようなもの)であった丘建が幽閉された胡烈に差し入れを願い出たことを契機に、幽閉された将と外部との連絡が通じ、魏兵は鍾会に背く。乱戦の中、姜維と鍾会は殺害される。

 ケ艾が身を滅ぼした最大の理由は、インテリ層(史書を書く者たちのような)の支持が薄かったことだろう。ケ艾が成都を落としたのだが、その評価は幸運に当たった、というようなものであった。現に、姜維と対する鍾会軍20万に対し、ケ艾の別働隊は1万であり、また、ケ艾の行動は補給に不安が多く、劉禅の降伏が早くなければ自滅していたという非難があった。
 胡烈(字は玄武)、兄は胡奮(字は玄威、晋書に伝がある。)、父は胡遵(司馬懿の元で活躍した。)、子は胡淵。この鍾会が差し入れを許した、というのは一般的なインテリの行動でもあり、またそれによって計画が破綻し失敗する、というところまでがテンプレでもある。
 鍾会がなぜ群官を幽閉したかというと、鍾会直属の兵がほとんどおらず、群官と兵との分断を図り、兵を奪うことを考えていたものだと思われる。また、鍾会の最期の記述についても、いかに鍾会が自分では戦えなかったか、ということを物語っている。(姜維は応戦しているが、鍾会はなす術もなく殺害されている。)
 先生の中では、鍾会は郭嘉とイメージが被るという感じらしい。戦略にリアリティがない共通点がある、ということ。郭嘉の戦略にはリアリティはなかったが、それを実現させてしまう曹操という化物が傍にいた。そのため、逆に理想論を吐ける郭嘉を失ってから、曹操の行動に精彩を欠いたのではないか。鍾会はこの反乱計画において、郭嘉と曹操の役割の両方を担おうとして失敗したのではないか。

 司馬望について。
 晋書に伝がある。字は子初(205年-271年)。司馬師(208年-255年)、司馬昭(211年-265年)の族兄。司馬孚の子であるが、司馬朗の後を継いだ。しかし、司馬朗伝には司馬遺という子がおり、後を継いだとなっている。司馬望が結局後を継いだのは、司馬朗家のためというより、司馬孚家の子を優遇しているということではないか。
 世代的には諸葛亮より一世代下だが、なぜか「演義」113回に崔州平、石広元と友人だったという設定で出てくる。話としては、姜維が八陣を使い、ケ艾が翻弄されたところにアドバイスする役柄として現れる。井波先生は司馬徽と混ざったのでは、としているが、ここでも演義では時間感覚が適当であることが見て取れる。

 姜維の胆について。
 『世説新語』には、「維死時見剖 膽如斗大」とみえる。しかし『資治通鑑』の胡三省(元代)註では「斗」を「升」と改める。理由として「斗」は身体の形を表すのに使わないので、たぶん「升」だろうとしている。だが、先生の意見では、胡三省は度量衡の変遷を意識していないのではないか、ということ。元代の「斗」は9L、「升」は0.9Lだが、魏の時代では「斗」は2L、「升」は0.2Lである。
 ただ、明末清初の大学者である顧炎武も「升」と書く、としているため、さすがに中華書局も負けたのか、最近の版では「斗大」ではなく「升大」としている。
 胡三省の注釈は音註が多いが、すべて信用していいのか難しいとところ。例えば、「袁術」を「エンスイ」と読む、としているが妥当か?

 梁父吟について。
 吉川英治や陳舜臣の小説などで諸葛亮が好んだ歌として紹介される、「二桃殺三士」の句が一計三賢を害すの原典だと先生は考えていた。(私見:私もそう思ってました…。)これは斉の国で勢力を持っていた田疆・公孫接・古冶子を策によって晏子が自殺に追い込む話が元になっている。
 しかし、古い本に集録された梁父吟は、この歌の内容が異なっている。一計三賢を害する、という句の原典を梁父吟に求めるのは難しい。

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 5月14日の三国志ガーデン最後の日にも「三国志のすすめ」としてお話されるとのことです。こちらは無料。いつものノリでお薦め本を挙げるとのことですが、一体何が出てくるのでしょうか。
posted by みなと at 21:45| Comment(0) | 三国志関連の講演会
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