2016年03月29日

三国志事件簿講座『鍾会叛乱未遂事件・前篇』

 3月26日(土)に三国志ガーデンで開催されていた講座のメモです。
 講師は龍谷大学の竹内真彦教授です。

 今回の余談は『三国志演義成立史の研究』(著:井口千雪)がショックだーその視点やられたーというお話からでした。
 現在残っている三国志演義の成立は17世紀より後らしく、羅漢中はおそらく14〜15世紀くらいの人間であり、三国志演義の原本は見つかっておらず、150年ほど開きがある。そのため、内容の改変がかなり起こっており、系統としては、羅漢中作(A)-(B)という流れがあり、この(B)から枝分かれして20巻バージョン(C)と24巻バージョン(D)があり、(C)から2本に枝分かれして、花関索がいるバージョン(C1)と関索が登場しないバージョン(C2)があり、(D)から2本に枝分かれして、関索がいるバージョン(D1)と関索が登場しないバージョン(D2)があるそうです。そして、(C2)から関索がいるバージョン(C2´)が生まれた、という流れだそうで。関索の伝承自体は元々あったのだけれど、三国志演義においては、関索が登場しないバージョンの方がより古く、新しいものに関索の存在が追加される、とされていたそうです。
 しかし、井口氏は、(B)の段階で既に関索が登場していることを実証され、関索が後に削られたバージョンがあることを論証された。つまり、(C)から分岐したのは、(C1)と(C2)と(C2´)の3本が正しい、ということらしいです。
 簡単に言えば、関索が存在する方が古いのではないか、という常識の逆転を論証したということ、でしょうか。竹内先生はとても悔しがっておられました……。
 三国志演義の成立史については、ウィキペディアでかなり詳しく記事になっているそうで、これは良記事だということでした。たぶんこれです。

 ここから本題で、竹内先生は横山光輝三国志リアルタイム世代ということで、コミックスの巻末に読者フォーラムがあり、そこで柴田錬三郎の書いた三国志の存在を知り、姜維が好きになったということで。(私見:わかるー『英雄生きるべきか死すべきか』かっこいいよねー。)先生にとっては、何も成せなかったことを含めて真田幸村ポジションに見えるとのこと。(先生自身、真田氏に思い入れありすぎて真田丸が見れないとか。)
 三国志の末期では、鍾会はともかく(私見:笑うしかなかったコメントでした。)、姜維とケ艾は人気の二強ではないか、とのこと。
 ということで、以下から個人的な講義メモになります。正確さを突っ込まれるとツライ。

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 今回はとりあえず、姜維・ケ艾・鍾会をとりまく社会環境について、の話がメインでした。

 まずは、鍾会の出自について。
 鍾会、字は士季(季、よりおそらく四男よりあと。)(225年-264年)豫州潁川郡長社県の人。(魏書鍾会伝)
 高祖父:鍾皓(季明・87年-155年)(ちなみに没年の155年は曹操誕生の年。党錮の禁の最中に生きていた人物ということです。)清流派の大物である陳寔と親交があり、蒼悟太守の陳稚叔、黎陽令の荀淑(83年-149年)とともに潁川郡の名望を集めたとされる。(魏書鍾繇伝)ただ、これが書かれている『先賢行状』というのはまとまった形の本ではなく、メインになっているひとについては話を盛っている可能性があるとのこと。
 曽祖父:鍾迪(?-?)党錮の禁によって出仕しなかった。(魏書鍾繇伝)
 祖父:名字未詳。
 とりあえず、鍾氏は名が通った名家であったとされる。
 父:鍾繇(元常・151年?-230年)鍾会は末子になる。(おそらくは四男。)賈詡(147年-223年)の後任として太尉になる。(70歳ごろと考えられる。)曹丕の人事は名望のある者を登用し、だいたい年功序列であったと考えられる。同じ頃の司徒は華歆(157年-231年)、司空は王朗(?-228年)であり、魏の三公は名誉職とも言えるかもしれない。鍾繇の年齢の推定については、魏書荀攸伝の(キレやすい)裴松之の注より、もし80歳で死去したとしたら151年が生年か?
 兄:鍾毓(稚叔・?-263年)おそらく三男。14歳のとき、曹丕の時代に仕官しているので、214年以前の生まれと考えられる。鍾会とは10歳以上離れている。鍾会の叛乱以前に死去。(魏書鍾繇伝)『世説新語』言語第二にある逸話は曹丕の没年と合わないために架空のものと考えられるが、そのような逸話が作られるくらいに兄弟で子供の頃から名を知られていたといえる。この逸話は言語の項目にあるように、鍾毓の答え「戦戦惶惶、汗出如漿」の「惶」と「漿」が韻を踏んでおり、また、鍾会の答え「戦戦慄慄、汗不敢出」の「慄」と「出」が韻を踏んでいる、というネタ。『世説新語』は漢から東晋の間の有名人のエピソード集で、だいたい盛っているので割り引いて見た方がいい。しかし、曹操の嫌われエピソードはここからスタートしているとも考えられるので、死後200年後には、このようなイメージで見られていたということが伺える。
 甥:鍾駿(魏書鍾繇伝)鍾毓の子。鍾会の叛乱に連座して処分されるところを、鍾毓に至る血筋を止めるわけにはいかないとして、司馬昭自ら制止したとされる。
 甥:鍾邕(上二人のどちらかの兄の子。鍾会とともに死亡。)、鍾毅(鍾会が養育していた、上二人のどちらかの兄の子。鍾会の叛乱に連座して処刑。)

 鍾会の官歴は、基本は司馬師・司馬昭の懐刀であり、対蜀戦線の経験はほとんどなかった。司馬昭はお気に入りの鍾会に手柄を立てさせたかったのか?

 ケ艾の出自について。
 ケ艾、字は士載(?-264年)荊州南陽(義陽)郡棘陽県の出身。(だいたい新野のあたりか。中国では時代によって建業が南京になったり、長安が西安になったりと、地名がよく変わる。)
 死没したとき、70歳前後だったと考えられる。幼くして父を亡くす。(「孤」とは、父を亡くすという意味で一人になった、ということではない。母は生きている。)早くても197年生まれと考えられる。197年から200年あたりが妥当か。(曹操の荊州侵攻(208年)のときに荊州を離れ、潁川に入ったときには12歳だった、という記述による。)
 石苞とともに「襄城典農部民」となる。部曲は私兵のことであり、部民は私的な農民のことだろう。典農部民というのは屯田兵のことか?元来、士の家の出で文字が読めたので、屯田吏として働くことになったのだろう。ケ艾の方が年長であるのに、一族に同名がいるということで名を変えているので、一族の中でも没落していたのだろう。農業ができ、また文字も読める人材だったのだから、そこから出世の糸口もつかめたはずだが、吃音だったために、出世できなかった。『世説新語』言語第二にある、ケ艾が自分のことを艾艾と繰り返すのをからかわれて、「鳳兮鳳兮」と答えたのは、『詩経』からの引用。
 吉本の乱(218年・実際は耿紀が中心か。)に連座して蟄居していた郭玄信(郭嘉の一族か?)の御者となった、ということは、曹操の死去前後までは潁川にいたのだろう。この郭玄信の使者として司馬懿に会い、才能を見出された。そこからのスタートは出世コースの始まりとも言える職であり、鍾会であれば最初の任官であってもおかしくないところだった。

 ケ艾の官歴について。(スライドのメモが間に合いませんでしたが、ヘ団さん(@Vitalize3K)に教えていただきました。ありがとうございました。)
 尚書郎→参征西軍事→南安(涼州)太守。(中央から地方へ。)
 嘉平元年(249年・51歳?)郭淮とともに姜維を防ぐ。(麹城の戦い)→討寇将軍を加えられる。
 →城陽(青州)太守(252年ごろか?)→汝南(豫州)太守→兗州刺史・振威将軍。
 正元2年(255年・57歳?)中央に召還され長水校尉・行安西将軍となる。姜維を防ぐため、安西将軍・仮節領護東羌校尉に任命される。(ここから本格的に対蜀戦線に張り付きになる。)
 甘露元年(256年・58歳?)鎮西将軍・都督隴右諸軍事。
 甘露2年(257年・59歳?)征西将軍。

 姜維は何故孔明に降ったのか?
 姜維、字は伯約(202-264)涼州漢陽(天水)郡冀県の出身。父は姜冏。
 漢陽の姜氏は郡中の大姓であり(魏書王朗伝)、姜維の郡州における地位はそれを勘案する必要がある。
 ちなみに、王朗について。魏書巻13に立伝されている鍾繇・華歆・王朗は、曹丕にとっての荀ケ・荀攸・賈詡のような存在ともいえる。中でも王朗は学者の家系で、息子の王粛は有名人。この裴松之注にある逸話で、「単家」というのは後ろ盾を持たない人物のこと。(例:徐庶)曹操生前の話であり、京師とは許都を指すと思われる。
 馬超の二度目の反乱時における楊阜の逸話について、ここで楊阜に呼応する姜叙、姜隠、趙昂などは天水の有力者。
 涼州は中央(後漢→魏)に対して従順な土地柄ではなかった。後漢以降は西域との交易路のみを確保し、面としては治めていたとは言い難い。馬超、韓遂など叛乱は多く、中でも宋建(河首平漢王)は30年余り反逆を続けていた。そのため、涼州出身者で中央で出世した者は、賈詡(太尉)と楊阜(少府)くらいだった。また賈詡については、董卓に召し出されて中央に出たが、その後ほぼ郷里から切れていると言ってもいい。涼州出身者にとって中央での出世の芽はほぼなかった。
 吏民(魏書明帝紀・太和二年)とは土着の民のこと。天水・南安・安定の三郡は有力者が入ればなびく土地柄だった。馬遵は中央から派遣されていた太守であり、姜維たちは土着の民として、太守から信頼されていなかった。そのため、街亭の戦い敗走時に姜維は蜀軍に付いて行ったのか。孔明は涼州との連絡役、布石として連れ帰り、これを功績としたのではないか。

 孔明の北伐は4回から8回まで数え方はいろいろではあるが、孔明自身が仕掛けたのは7回か。
 三国志演義には物語の構成上の流れとして、「天理大数」の考え方がある。「三顧之礼」の「三」、「六出祁山」(孔明の北伐のこと。)の「六」、「九犯中原」(姜維の北伐のこと。)の「九」、という数字で、孔明-姜維の継承のラインを示している。

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 後篇は4月23日(土)だそうです。
posted by みなと at 23:56| Comment(0) | 三国志関連の講演会
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